本心<222>

2020年4月22日 02時00分

第九章 本心

 僕より先に、部隊の誰かがそう言って死ぬのを目にしたなら、きっと、同じことをしただろう。上官がどう言おうが、もうそんなことは関係ないのだから。――自分が一番に、そうしただろうか? 苦しみの最中に、この世界の最後の姿を見ながら、愛している人以外の名前を、どうして口に出来るだろう?
 その時には、目に映る光景よりも、記憶の中の母を想起する方が重要ではないだろうか。僕は、死よりも先に目を瞑(つむ)るかもしれない。そうすれば、距離はもう、感じずに済む。
 聞こえるはずがなくても――返事を聴くことが出来なくても、やはり、声に出して呼びかけるだろうか?
 「お母さん」という音が、僕の声帯を震わせること自体が、生きている僕にとっては、最後になるのだから。……しかし現実には、苦痛と衰弱の余り、叫ぶどころか、もうどんな声も出すことは出来ないのかもしれない。
 <母>に今、生前の母が口にしなかったことを喋(しゃべ)らせているのは、やはり間違っているのだろうか。それが出来るからこそ、僕は<母>が生きていると感じるのだが。
 僕は、母を誰よりも知っていて、「そんなことは言わなかったよ。」と、VF(ヴァーチャル・フィギュア)の誤りを訂正することが出来る。本当の故人を知っている人間に対しては、VFも、自由に語ることが許されるべきではあるまいか?――それもまた、同じ堂々巡りだった。
 どうして僕が、それほどまで母の本心を知っていたと、言えるのか。……
 三好は、イフィーから貰(もら)ったアバターを喜んでいたが、二十万円に関しては当惑したままで、僕と話し合って、一旦(いったん)は、彼に返したい旨を伝えた。しかし、そのメールに対して、イフィーは、
「僕の感謝の気持ちなんで、受け取ってください!」
 と、笑顔のスタンプをつけて返信してきた。
「とても嬉しいけど、気持ちだけで十分なので、お金はやっぱり遠慮します。」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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