本心<226>

2020年4月26日 02時00分

第九章 本心

 一月の終わり頃、僕は、イフィーからプレゼントされた“紳士的な狼男(おおかみおとこ)”のアバターで、しばらく仮想空間のあちこちを、当て処(ど)もなくぶらついていた。
 以前には、そんな習慣はなかったが、イフィーのアバターを使うようになってから、すべてが変わった。
 ともかく、仮想空間内に、ただその姿でいるだけで、様々な人に――相手も、素顔だけでなく、宇宙人から動物、歴史上の偉人、アニメのキャラクターまで、様々だったが――注目され、話しかけられた。フィジカルな世界では、たとえ、通りすがりに容姿に惹(ひ)かれても、あそこまで気楽に、赤の他人に褒め言葉を投げかけてくる人はいないだろう。
 イフィーのアバターだと、すぐに気がつく人もいれば、どこで買ったアバターか、知りたがる人もいた。自動翻訳を使っていたが、世界中の様々な国の人が、僕に憧れるような面持ちで駆け寄ってくるというのは、未知の経験であり、高揚感を掻(か)きたてられた。そのまま、デートに誘われたことも、一度ならずある。もっと直接的な誘いも。――僕は応じなかったが。
 ともかく、イフィーのアバターが、どうして人気があるのか、僕は自分で纏(まと)ってみて、初めて痛感したのだった。
 その夜、三好は自室に籠(こ)もっていて、僕はリヴィングで一人だった。寒い静かな夜で、僕は、暖房の風の音を聞きながら、この文章を書いていた。丁度(ちょうど)、あのコンビニの動画が世界中に拡散してゆく時期のことで、ふと、あの店員の女性はどうしているのだろうかと考えたりしていた。
 それから、僕は息抜きに<母>と話すつもりでヘッドセットをつけたが、気が変わり、「ドレス・コード」を検索してみて、ジャンプした。
 建物は、ヨーロッパの町外れにある古城のような佇(たたず)まいで、満月の夜だった。噴水のある広大な庭園があり、大きな門の前にまで進むと、タキシードを着た男性に、年齢確認と守秘義務などを求められた。しかし、あまり厳密なものではなかった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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