本心<219>

2020年4月19日 02時00分

第九章 本心

 そういう自分を、憫笑(びんしょう)すべきだろうか? ずっと先延ばしにしてきたが、もし、母なしでも生きていけると認められるなら、それは希望に違いなかった。時が、悲しみを癒やしてくれただけではない。僕が今、そう思えるのは、明らかに、僕の人生が好転しつつあるからだった。「心の持ちよう」だけじゃない。相変わらず、貧しく孤独であったなら、僕は<母>を手放すことなど出来ないだろう。
 僕は、信じてもいない、あの世にいる母のことを想像した。
 本当は、《縁起》で体験したように、この地球上を、母を構成した無数の元素が浮遊し、束(つか)の間、何かの姿に転じつつ、やがて遙(はる)か彼方(かなた)の未来で、僕の残滓諸共(ざんしもろとも)に、宇宙空間に放たれるという事実をこそ、信じている。
 しかし、かなり不思議なことだが、僕は、空のどこかから、生前の姿のまま、僕を見守っている母の存在を、肌身で感じることが出来た。その表情を思い描くことも。そして、僕のこうした変化を、母は、きっと喜んでくれるだろうと考えた。
 一体、愛する人の記憶は、何のために、その死後も残り続けるのだろう? 生きている人ならば、覚えていることが、次に相手に会った時に役に立つ。けれども、もう会えない人の記憶は? ただ、自分自身のために思い出すのだろうか? 生きている誰かと、その人について語り合うため? いや、そんな目的もなく、ただ、その人がいなくなっても、消えてしまうという機能が備わっていないからこそ、残り続けるに過ぎないのだろう。それをどうするのかは、生きている人間次第だった。
 故人が憎いなら、忘れてしまいたいだろう。愛していても、思い出そうとする僕の手が、触れる度に、少しずつその形を崩し、修理するということを繰り返している。恐らく、何一つ変えることなく、元のままの母を思い出すことなど、出来ないのだった。
 そう言えば、カンランシャの V F (ヴァーチャル・フィギュア)は、このところ、世間でちょっとした騒動を巻き起こしていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

PR情報