本心<189>

2020年3月19日 02時00分

第八章 新しい友達

 僕は、ただ微笑しただけで、あの行動の動機については説明しなかった。そして、イフィーの思い描く通りの人間であり続けるべきなのだと、改めて自分に言い聞かせた。
 それに、僕は誰よりも、三好からもっと評価される人間になりたかった。
 どうすれば、そうなるのかはわからなかったが、彼女の生活を助けられるくらいの安定した収入を得たかった。
 僕は彼女を傷つけたくないので、彼女が期待した最低限の信頼には、何があっても応え続けるつもりだった。
 僕はこれまで、彼女に指一本触れたことがない。かつては母がいて、今は彼女が住んでいる部屋は、腸炎の看病をした時以外、足を踏み入れないばかりか、ドアをノックしたことさえない。用事のある時には、メッセージで伝えている。
 僕は、彼女を愛さない。彼女から愛されることを願わない。ただ、今、僕の命が突然尽きるとして、その“死の一瞬前”に、彼女と一緒の自分でいられるならば、僕はきっと、幸福とともに死を迎えられるのではあるまいか。つまり、宇宙そのものになることを、喜びのうちに受け容(い)れる、ということだが。――
 登録会社との契約関係を清算して、イフィーの自宅に、月曜日から金曜日まで、毎日、通い始めたものの、リアル・アバターとしての仕事は、予想通り多くはなかった。買い物や配送物を出してくること、クリーニング店とのやりとりなど、雑務を引き受けたが、その際には特にゴーグルの着用も求められなかった。最初は、「ヒーロー!」である僕にそんなことは頼めないと遠慮していたが、手持ち無沙汰を訴えて、僕の方から提案した。そのうち、彼が音声入力で、猛スピードで処理していくメールの返信の変換ミスの訂正や改行といった編集も手伝うようになった。そのメールは、イフィーのアカウントからイフィーとして送信されるものだった。 
 彼の仕事部屋は二階にあり、ほとんど籠(こ)もりきりで、デザインをするだけでなく、スタッフとのやりとりも、すべてそこで完結しているらしかった。時々、英語を話している声も聞こえてくるので、海外のエージェントがいるらしい。しかし、僕は一度も二階に上がったことがなかった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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