本心<187>

2020年3月17日 02時00分

第八章 新しい友達

 僕は、「……ええ。」とだけ頷(うなず)いて、あの広いリヴィングを遠ざかっていった彼の背中を思い返した。彼の専属となって、彼の体として生きるというのは、どういうことだろうかと考えながら。――一度で、彼ももう、十分なのではないかという気がした。何度も僕に依頼する理由は、恐らくあるまい。
 その後、僕はかなり長い間、黙ってただブランコをこいでいた。
 やがて、イフィーは、僕に「もう十分です。」と言った。さすがに酔って、気分が悪くなったらしかった。そして、その一言は、僕の心にずっと残り続けている母の言葉を思い出させずにはいなかった。
 その日はそのまま、イフィーのマンションに呼び戻されることなく解放された。
 帰宅すると、僕のアカウントには、正規料金とは別に、“チップ”として十万円が振り込まれていた。
      *
 夕食時、三好は、僕の語るイフィーの話を身を乗り出して聴いた。彼がまだ、十九歳の青年だと知ると、
「本当に、本物なの、それ?」
 と目を瞠(みは)った。
「それで、専属契約でやるの?」
「はい、さっき、メッセージが届いてて、そう希望してるって。」
「絶対やった方が良いよ! 七百万円なんて! 一流企業並みでしょう?」
「そうですね。……でも、今日みたいなのは、すぐに飽きると思います。あまり外出してなさそうですけど。」
 久しぶりに、鍋を一緒につつきながら――キムチ鍋だった――僕は、湯気の向こう側の彼女の複雑な表情を見つめた。その本心を読み取ろうとして。――興奮しているような、少し寂しげに羨(うらや)むような。……いつか、イフィーに三好を紹介する機会があるだろうか?
 僕の収入が、彼女の倍以上になるという事態を、これまでまったく想像したことがなかった。それは、僕たちの関係に、影響せずにはいないだろう。
 僕は、彼女を置き去りにしてしまうことを想像して、不安になったのだろうか。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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