本心<143>

2020年1月31日 02時00分

第七章 転機

「自分で工夫して、安くて美味(おい)しいごはんを作れるようになるとね。……なんでこんな簡単なことも出来なかったのかなって、自分の親のダメさ加減がますます思いやられる。――朔也(さくや)君は、お母さんから何か、習わなかったの?」
「……特別には。僕は、母の手料理は好きだったんですけど、母の死後、自分で再現するってことを、考えたことがありませんでした。習っておくべきでした。」
 三好は、黙って相槌(あいづち)を打っていたが、鍋の煮立つ音が気になったように、少しカセットコンロの火を弱めた。そして、僕のグラスにビールを注(つ)ぎ足した。礼を言って注ぎ返そうとすると、構わないという風に手で制して自分で注いだ。
 僕は、一口飲んでから語を継いだ。
「でも、母にしても、結局、同じだと思います。料理の本とか、ネットとか、そんなんですよ、元々は。」
「まあ、そうでしょうけど、……そうかもね。わたし、酷(ひど)い家庭で育ったから、よそはきっと違ったはずだって、思いがちなのよ。実際、違ったと思うんだけど、どこがどう違ったかってことがわからないの。だから、きっと、トンチンカンなところで羨(うらや)ましがってるんだと思う。」
 いつ壊れるかと、このところ心配している古いクーラーの風が、微(かす)かに立つ湯気を揺らめかせていた。
 三好は、あまりしんみりとし過ぎてしまったと思ったのか、さてと、という風に椎茸(しいたけ)と鶏肉を取って、頷(うなず)きながら食べた。
「やっぱり、鍋で正解だったね。一緒に夕食、食べてるって感じがする。」
「そうですね。明日からも、しばらく鍋ですけど。」
「飽きるまで鍋でもいいよ。簡単だし。」
 彼女は、そう言って、今更、思い立ったように、もう大分具材も減って、あまり見栄えも良さそうじゃない鍋を写真に撮った。
 僕は、スマホの電源は、切ったままにしていた。そして、今日あったことは、彼女には話さずにいようと決めた。
 食後は、僕が食器を洗い、先に三好が入浴した。僕は、帰宅後にシャワーで汗を流していたが、鍋の香りもついていたので、改めて一風呂浴びたかった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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