本心<140>

2020年1月28日 02時00分

第七章 転機

 やっぱり、この男が、僕の評価を著しく下げた、あの女なのではあるまいか? 男は僕を押しのけようとしたが、僕は無言で、足を踏ん張りながら行く手を塞(ふさ)いだ。岸谷が、僕を指嗾(しそう)していた。いや、違う。僕は、あの高校時代の“英雄的な少年”に憧れていたのではなかったか。そして今、僕は誰にも命令されていない。自分自身の本心から行動しているのだ。……
「オキャクサン、あの、……」
 店員の声が背後から聞こえてきた。男は革靴を滑らせて、体勢を崩し、激昂(げきこう)して僕を突き飛ばした。僕はカウンターに腰を打ちつけ、その痛みに顔を歪(ゆが)めた。
 僕は、やっぱり殺すべきではないだろうかと、自問した。そして、もう母のいない世界で、なぜ法律を守らなければならないのだろうかと考えた。誰も僕の罪を嘆かない世界で、なぜなのか、と。……
      *
 夕方五時過ぎに帰宅すると、僕は、三好が戻る前にシャワーを浴び、汚れたシャツとスーツを洗濯機で洗って、証拠隠滅を図るように、今し方経験したことの痕跡を消し去った。そして、髪も濡(ぬ)れたままで、自室のベッドに倒れ込んだ。
 僕は何よりも、自分自身を取り戻したかった。しかし、返却された僕の体は、酷(ひど)く乱雑に扱われ、最初に貸した時とは同じでない感じがした。それが、悲しかった。
 僕は、考えることに倦(う)んで、ただ、真っ白になりたかった。
 何も感じず、何も考えずに、無感覚のまま静かに眠りに落ちたかった。何度も寝返りを打って、小さく体を丸めたが、僕を包んでいるその麻痺(まひ)はあまりに薄く、どれほど眉間を絞って鍵を掛け、閉め出そうとしても、耳の中には、絶え間なく嘲笑が闖入(ちんにゅう)してきて、目蓋(まぶた)の裏に憤怒の男の顔をちらつかせるのだった。
 会社からは、引っ切りなしに連絡が来ていたが、僕はそれを無視して、電話の電源を切ってしまった。
 母が、こんな僕を知らないまま死んでしまったことの意味を、漠然と考えた。今この瞬間にも、知ってもらうことが出来ないまま、死を死に続けている意味を。――
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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