本心<137>

2020年1月25日 02時00分

第七章 転機

 やりとりの断片からわかったことは、どうやら、本当の依頼者は、彼らに脅されてアカウントを貸しているらしく、たとえ僕が、このアカウントを利用違反者として報告しても、ペナルティを科されるのは彼であり、今、僕に命じている残りの三人ではないのだった。
 奇妙なことに、僕は初めて、遠隔で外部から命令されているのではなく、自分を内から乗っ取られてしまったかのような感覚に陥っていた。得体(えたい)の知れない三人組が、僕の心に坐(すわ)りこんで、ジュースやスナック菓子をこぼしながら食べ、この体を好き勝手に弄(もてあそ)んでいる。――僕はそして、自分の体を彼らに完全に明け渡し、その場所から遠ざかろうとするかのように、虚(むな)しく足を速めていた。
 僕は、夕食に三好と作ることになっている鍋のことを考えようとした。帰宅したら、すぐにまずシャワーを浴びるべきだった。それから、一緒にスーパーに出かけ、何の鍋にするのかを話し合っている様を思い浮かべた。
 セックスワーカーだった頃の三好も、こんな風に自分の体を抜け出して、意識だけの存在になって、どこか遠い場所で時間を潰(つぶ)していたのだろうか? 
 僕は、自分が、彼女を買った男たちと同じ欲望を抱き、つまり、彼女から、その連中と同じだと見做(みな)されることを想像して、激しい嫌悪を覚えた。僕は、そうじゃない人間でいたかった。絶対に違う人間として、彼女から尊重されたかった。僕は彼女と<母>との三人の生活を夢想した。僕たちは、家族になれるんじゃないだろうか。……
 <母>に、今日のこの屈辱的な経験を話すべきだろうかと考え、僕は、その心配する顔を思い浮かべて、黙っておくべきなのかもしれないという気がした。三好には? 家族になるということは、結局は、何も話せなくなる、ということなんだろうか?
 不意に、前回の台風の最中(さなか)に読んだ『波濤(はとう)』という小説の海辺の死の場面が脳裡(のうり)を過(よぎ)った。
 僕は、あの芸人と同じように、今、人から笑われているのだった。僕の懸命な人生は、「あっちの世界」の人たちの退屈しのぎだった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

おすすめ情報