本心<141>

2020年1月29日 02時00分

第七章 転機

 六時半に、僕は近所のスーパーで三好と待ち合わせしていた。それをキャンセルしようかと、ギリギリまで迷ったが、そうすべきでないと、服を着替えて自宅をあとにした。
 自動ドアを一枚潜(くぐ)って、カートが並んでいる辺りで、三好はスマホを弄(いじ)りながら待っていた。
「お待たせしました。」
 と僕が駆け寄ると、
「遅ーい。タイムセールに出遅れてるよ!」
 と言って笑った。それから、つと僕の目を見て、
「どうかした? 顔色が悪いみたい。」
 と小首を傾(かし)げた。
「ああ、……いえ、大丈夫です。」
「そう? 仕事、早く終わったの? スーツで来るの、楽しみにしてたのに!」
「一度、帰宅したんです。汗だくだったんで、洗濯して干してます。」
 三好は、ふーん、という顔で頷(うなず)いたが、何かを察した様子で、それ以上は尋ねなかった。
 気づかいのようでもあり、また、慎重な距離の取り方のようでもあった。
 彼女の過去にアクセス出来るなら、僕は、自分の体の所有者でなくなることの苦痛を共感し合えるのではないかと、この時、不意に思った。けれどもそれは、既に現在を生きている彼女に対する身勝手な、甘ったれた考えなのだと、口に出すことはしなかった。
 店内の風景は、日中、訪れた表参道の高級スーパーの記憶と悪気もなさそうに戯れ始め、僕を酷(ひど)く動揺させた。
「朔也(さくや)君、豆乳鍋とかどう?」
 先を歩く三好は、振り返りながら尋ねた。
「食べたことないです。」
「ホント? 鶏肉だけど。塩麹(しおこうじ)で味つけして。」
「いいですね。美味(おい)しそうです。」
「じゃあ、今日はそうしよっか。少しまとめて材料買って、しばらく鍋食べる?」
「はい。……じゃあ、キムチ鍋の素(もと)とかも、買っときましょうか。」
「そうね。豆乳鍋はマイルドだから、刺激的な方がいいかも。」
 たった数秒の会話だったが、僕はその間、日中の出来事を完全に忘れていられた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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