本心<136>

2020年1月24日 02時00分

第七章 転機

 そして、
「――もういいから。」
 と、急に憐(あわ)れむような、隣近所の子供に向かって大人が言うような口調で呟(つぶや)き、下を向いて包装を剥がし始めた。イヤフォンから、「態度悪い店員だな。」という声が聞こえ、続けて何か言っていたが、僕はそれを聴き取らないまま、もう一度、「すみません。」と謝って、その場をあとにした。
 それから、僕は日本橋の別の果物店に始まり、丸の内、銀座、築地と、言われるがままに徒歩で移動し、同じようにメロンを購入しかけては、途中で止(や)める、という馬鹿(ばか)げたことを繰り返した。いずれも、電車に乗るだけ手間がかかるというような微妙な距離だった。
 気温は予報通り、三十度まで上がり、湿度も高かった。僕は、ゴーグルの下から指を入れて、目に染みる汗を何度も拭った。外気よりも、当然に体温の方が温度が高いことを、火照った頬でずっと感じていた。
 日差しが強く、木の葉が散った歩道の上の僕の影は濃かった。
 二時間半も歩き通しで、ワイシャツは、ぐっしょりと濡(ぬ)れてしまっていたが、僕はもう構わなくなっていた。
 ゴーグルに表示される指示にただ従っていただけなので、ビルの谷間で、自分が一体、どこを歩いているのかさえ、時折、わからなくなっていた。
 あとから思えば、どこかで拒否すべきだった。けれども、こんなに蒸し暑くなく、スーツを着込んでいるのでなければ、必ずしも無理な距離ではなかった。依頼者のわがままには慣れているので、この程度なら、四時間の契約時間をどうにかこなせるはずだった。
 僕が耐え難かったのは、この依頼が、僕をただ、嘲弄(ちょうろう)するためだけの目的であることが、最早(もはや)、疑い得なくなったことだった。
 依頼者は、一人ではなく、少なくとも四人いて、途中から、せせら笑いをもう隠さなくなっていた。
「ハアハア言ってるな。」という呟きが聞こえ、「暑い?」などと、揶揄(からか)うように直接、問いかけられた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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