本心<139>

2020年1月27日 02時00分

第七章 転機

 僕は、自動レジで精算を済ませると、その場ですぐに水を呷(あお)った。
「ここは日本! ちゃんとした日本語喋(しゃべ)れないなら、国に帰れ、国に!」
 依頼者たちも、このやりとりに気づいたらしい。興奮しながら笑う声が入り乱れている。うるさいなと、僕はゴーグルと一緒にイヤフォンを外して、カウンターの上に置いた。ジャケットと手荷物は、自分でも気づかぬうちに足許(あしもと)に落としていた。
 岸谷が言った「オレはもう、つくづくイヤになったね。もうイヤだ。」という言葉を思い出した。僕は頷(うなず)きながら微笑した。彼は今、拘置所でどうしているのだろう?
 僕は、終わらせようとしていた。――何を? 目の前のいざこざを?……
 僕を「臭い」と言った人のことを思い出した。今、ここで喚(わめ)いている差別主義者を、あの時殺さなかった女の代わりに殺してはいけない理由は何だろうか?
 男の許に歩いて行くと、僕は、「止(や)めろ。」と言った。けれども、それ以上、言葉が出てこなかった。頭が割れるように痛く、覚えず顔を顰(しか)めた。男は、一瞬、驚いて肩をびくつかせたが、振り返って僕が立っているのを見ると、
「アンタに関係ないでしょうが! 口出しするな。」
 と顔を紅潮させて言った。僕はもう一度、「止めろ。」と言った。女性店員は、動揺したまま、こちらを見ていた。
 ふと、僕はこの女性は、三好なのではないかと思った。見た目こそ違うものの。――そして、そう! この男は、彼女の首を絞めたという男なのでは? いや、そうではなく、寧(むし)ろ、高校時代に、僕にノートを借り、売春のせいで退学になった、あの少女なのだと悟った。この男は、彼女を金で買ったジジイなのだ、と。……
 僕は、店員を庇(かば)うようにして、男の前に立ちはだかった。顔は目の前だった。男は、僕に「どいて。」と言いながら前に進もうとした。僕はその行く手を阻んだ。
「どけよ!」
 男はムキになって体ごとぶつかってきた。
 僕のシャツは、すっかり汗で濡(ぬ)れていて、臭くなっていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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