福島・浪江町の大堀相馬焼職人 逆境乗り越え再開に苦闘<あの日から・福島原発事故10年>

2021年1月31日 06時00分

帰還困難区域にある工房で大堀相馬焼の陶器を整理する長橋明孝さん=福島県浪江町

「焼き物に申し訳ねぇ」
 福島県浪江町の伝統工芸、大堀おおぼり相馬焼の職人だった長橋明孝さん(81)=東京都江東区=は2020年11月末、帰還困難区域のままの同町大堀の工房でうめいた。地震の揺れで床に落ちた焼き物が、足の踏み場がないほど散乱したまま。歩く度に「バリン、バリン」と割れる音がこだまする。
 屋内でも放射線量は毎時3マイクロシーベルトほど。国の長期的な除染目標(同0.23マイクロシーベルト)の13倍の水準で、線量計の警報音が鳴りっぱなしだ。「10年前からなんにも変わらん。これが現実よ」

帰還困難区域内にある長橋明孝さんの工房。地震の揺れで落ちた焼き物が散乱していた=福島県浪江町

 大堀で生まれ育ち、10代のころから家業を手伝った。粘土から湯飲みを成形するのに1分間もかからず、1日500個ほど作った。すぐに作業に取りかかれるよう、常にシャツを腕まくりして暮らしていた。
 原発事故後、東京都江東区の公務員宿舎「東雲住宅」に入居。昨年、その近くに移り住んだ。「いつか戻って焼き物をやれたらいいが…」。年齢的にはもう難しいと思う。それでも、ぬれた土に触ることのない高層マンションの自宅でも、腕まくりはしてしまう。

◆突き動かした使命感

 福島県浪江町で江戸時代初期から続いてきた伝統工芸の大堀 相馬焼。窯元は今も放射線量が高い帰還困難区域内にあり、東京電力福島第一原発の事故で奪われた。それでも職人たちは、別の地で窯を再開しようと苦闘している。「先人も明治維新での逆境を乗り越えてきた。後世につなぐのが責任だ」。突き動かしたのは使命感だった。
 「相馬焼を絶やすわけにはいかねぇ」
 原発事故時に大堀相馬焼協同組合の理事長だった半谷はんがい秀辰ひでときさん(67)=福島県二本松市=らは、県内外に職人がばらばらに避難する中、事故から数カ月後には再開に向けて動きだした。
 最大の課題は、陶器を焼く際に塗る上薬をどうやって確保するかだった。

原発事故前の大堀相馬焼の作品(左)と、事故後に上薬を再現した作品(右)を示す半谷秀辰さん=福島県二本松市で

 300年以上続く大堀相馬焼は、大堀地区に近い山中で採れる花こう岩「砥山石」を砕き灰と混ぜて上薬にすることで、「青ひび」という地模様を表現してきた。その砥山石の採取地も帰還困難区域となり、調達できなくなった。

◆避難先で再開も窯元は半減

 相馬焼は、相馬藩お抱えの名産として江戸時代栄えていたが、江戸から明治になり、藩からの支援がなくなった。この危機を乗り越えるため二重焼が特徴として生み出された。差別化を図って生き残るためだ。
 この伝統を守るため、福島県の研究所が職人らが持ち出した砥山石の成分を分析し、市販の土や鉱物を組み合わせて上薬の再現を試みた。100回以上の試作と失敗を繰り返し、完成したのは震災翌年の2012年春ごろだった。
 職人らは避難先でそれぞれ窯を用意し、再現された上薬を使って制作を再開させていった。今は、福島県内の8市町村で9軒、長野県で1軒の計10軒が活動しているが、事故前の23軒からは半減した。
 今年3月、国道6号沿いの道の駅「なみえ」に隣接する場所に、大堀相馬焼の展示販売や陶芸体験ができる施設「大堀相馬焼伝承館」が開館する予定だ。各地で活動する職人らが交代で伝承館に詰めるという。

湯飲みを作る小野田利治さん=福島県本宮市

 だが、本来の産地に戻れない窮状に変わりはない。組合の現理事長の小野田利治さん(58)=福島県本宮市=は「常連客から『今までの相馬焼と色が微妙に違う』と言われることもあるし、大堀ではないところで作ることに葛藤もある」と話す。それでも、今できることを考え続けていくことに意味があると信じている。
 「先人は知恵を出し、時代に合わせて形を変えながら逆境を乗り越えてきた。その伝統を後世につないでいくことが、相馬焼を受け継いだ自分たちの責任だ」(小野沢健太、写真も)

大堀相馬焼 江戸初期の1690年ごろに大堀地区で作り始められたとされる。1978年に国の伝統的工芸品に指定された。独特の青みと細かいひびが入った「青ひび」、左向きに走る馬を描いて「右に出るものがいない」という意味を表す「走り駒」の絵柄、器を二重にして湯が冷めにくく、熱くても持ちやすくした「二重焼」が特徴。


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