本心<138>

2020年1月26日 02時00分

第七章 転機

 傍らを、車が規則正しく列を作って走り抜けていく。
 あの先の左手のビルとビルの谷間から、突然、波濤が襲ってくる、ということはあり得るのだろうか? 僕は驚いて、車道に飛び出してしまうだろう。ああ、僕はその時、誰として死ぬんだろうか? 僕に我(わ)が物顔で居座っている三人も、一緒に殺されるということはあるのだろうか? 僕は、“死の一瞬前”に、何を思うだろうか? まだ早すぎる。僕はまだ、その時、誰を思い浮かべるべきか、わからないままだというのに。……
 最後に築地まで歩いて、予想通り、結局、メロンを買わないまま、終了時間も間近となった。知人の見舞いに行くというのも、そのためにスーツを着てほしいというのも、すべて作り話だったのだろう。
 店を出たあと、まだ十五分ほど残っていたが、依頼者たちは、
「よし、もう一軒行ってみよう!」
 と言い、残りの一人が声を上げて笑い、もう一人が欠伸(あくび)をした。
「リアル・アバターって、ホントに何でもやるんだな。スゲェよ、マジで。いや、楽しませてもらったわ。人も殺すな、こりゃ、言われれば。」
 感心したように、そう言う声が聞こえた。岸谷の事件で、この仕事を知ったのだろう。
 足許(あしもと)が少しふらついて、酷(ひど)く喉が渇いていた。持参した水筒は、とっくに空になっている。目眩(めまい)がして、視界が明るく乾いて、罅割(ひびわ)れてゆくような感じがした。熱中症ではないかと疑った。
 一言断れば良かったが、その余裕もなく、僕は信号を渡ったところにあるコンビニに向かった。
「おいおい、どこ行くんだよ? 時間、まだだろう? ひょっとして、怒ってる? 怒っちゃった?」
 また笑い声。――僕はジャケットを脱いで、ネクタイを引きちぎるようにして更(さら)に緩めた。酷く具合が悪かった。一リットルの水を一本、選ぶこともせずに掴(つか)んで、レジに向かった。依頼者は、急に意のままにならなくなった僕に苛立(いらだ)って、大きな声で喚(わめ)いていた。
 カウンターでは、五十がらみの男性客が、東南アジア系らしい女性店員に何かを執拗(しつよう)に問い質(ただ)していた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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