本心<135>

2020年1月23日 02時00分

第七章 転機

 けれども、日常の維持という、もっと大きな、抽象的な目的が、彼女たちに命じている、と言えなくもなかった。社会そのもののリアル・アバターのように。――その証拠に、それに従うことが出来ない時に、彼女たちに低評価を下すのは社会なのだった。
 僕は、老舗の高級果物店で、宝飾品のように並べられているメロンを見つけると、先ほどと同様に品定めをして二個を選んだ。依頼者も、今度は納得したので、店員を呼んで購入する旨を伝え、桐(きり)の箱に入れて、のし紙をつけてもらった。ベテランらしい初老の女性で、手際がよく、包装紙に折り目をつける度に、長短、縦横斜めと様々に現出する直線が爽快だった。
 二個で三万五千円という値段で、僕は依頼者に支払いの確認をした。
 ところが、彼はまた、唐突にこう言った。
「やっぱ、ここで買うの止(や)めた。違う店にするから、それ、断って。」
「……え?」
「聞こえてる?」
「……ハイ。何か、問題ありました?」
「なんか、店員の“気”が悪いな。俺、そういうの敏感だから。見舞いのメロンなんだし、ヘンなの持って行けないだろ。」
 僕はようやく、ひょっとすると、揶揄(からか)われているのではないかと感じた。その最後の言葉の途中で、微(かす)かに笑いを堪(こら)えきれないような息が漏れた音を聞いたからだった。
 しかし、利用規約違反で依頼を中断できるほど、明らかな問題ではなく、この段階でそれを申し出れば、依頼者は僕に最低の評価を下して会社にクレームを入れるだろう。そうなれば、僕は契約を解除される懸念さえあった。
 店員に、
「すみません、ちょっと不都合があって、やっぱり結構です。」
 と言うと、
「えっ?」
 と驚いた顔になり、次いで怪訝(けげん)そうに、
「購入されないんですか?」
 と確認した。
「はい、……すみません。」
 店員は、僕のゴーグルをまじまじと見て、リアル・アバターであることをようやく察した。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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