本心<133>

2020年1月21日 02時00分

第七章 転機

 僕はまず、青山にある高級スーパーで、メロンを二つ、買うように指示されていた。表参道の駅で依頼者と接続したが、彼は、僕がジャケットを着ずに手に持っていることに、強い口調で不満を言った。
「最初から着用していてください。」
「病院に着いてからでは不都合でしょうか?今日はかなり暑いので、着ていると汗だくになってしまいそうで。」
「いいから着ていてください。そういうお約束でしたので。」
 依頼者のモニターはオフになっていて、僕にはそのアイコンの写真しか見えなかったが、声は思い描いていたのとは違い、威圧的な印象だった。
 僕は、そんな約束はしていないと反論しようとした。普段なら、こうしたケースでは、条件を再確認するはずだったが、この日はなぜか、それをしなかった。このあとも、大半は地下鉄での移動で、スーパーもすぐ近くだから、というのがまずあった。相手の反論を赦(ゆる)さない口振(くちぶ)りに、気圧(けお)されてしまったところもある。あまり好ましい依頼者ではなさそうだったが、会社との契約状況を考えると、あまり事を荒立てたくなかった。
 感情を無にして、ただ彼の望み通りに動くということが、この仕事の基本だった。
 依頼者は、桐箱(きりばこ)入りの「極上」のブランド・メロンを二個、希望していて、店を指定したのも彼だった。
 駅から十分ほど歩いただけで、ジャケットの下が蒸れ、額から汗の雫(しずく)が落ちてきた。
 僕は、以前に「臭い」と言われて評価を落とした時のことを思い出し、不安になった。病室は個室らしかったが、窓を閉め切ってクーラーで冷やしてあるその部屋で、入院患者は、ドアを開けて入ってきた僕の体臭に顔を顰(しか)めないだろうか。……
 スーパーに着くと、生鮮食料品売り場に直行した。さすがに少し涼しかったが、頭からは却(かえ)ってそれをきっかけに汗が噴き出してきた。濡(ぬ)れた襟足が冷たくなって、一層、不快に感じられたからかもしれない。
 メロンは、僕の目よりも少し高いくらいの棚に、四個、並べて陳列されていた。一個、一万八千円だった。
「手に取ってみて。」
「はい。」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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