本心<132>

2020年1月20日 02時00分

第七章 転機

 事件後は、警察での事情聴取のために、既に引き受けていた仕事の変更を願い出ていたが、それにまたくどくどしく注意が届いた。
 更(さら)に先日、三好の看病によるキャンセルで、次に問題を起こせば、三ヶ月間の業務停止と違約金の発生という具体的な通告を受けていた。
 僕はそれに自尊心を打ち砕かれ、憤っていたが、同時に、この仕事も辞め時かもしれないと初めて考えた。少なくとも、結局、岸谷の精神をも見舞った危機が訪れる前に、自分から離脱するべきではあるまいか。――しかし、他に今と同等の収入が得られる仕事の当てがあるわけではなく、マンションのローンの残りを考えれば、せっかく始まった三好との生活を維持するためにも、せめて猶予が必要だった。……
 この日は、初めての依頼者で、リアル・アバターのサーヴィス自体もこれまで利用したことがないとのことだった。アカウントの写真は、眼鏡をかけた、若い、僕とそう年齢も変わらないであろう、大人しそうな青年だった。
 依頼内容は、入院中の人の見舞いで、ただ、世話になった人なので、スーツを着用してほしいという要望が付されていた。僕は、仕事用に持っている紺のスーツを着て自宅を出た。三好が見たがっていたが、既に家を出ていたので、写真を撮って送った。彼女からは、
「おー、カッコいいー! 高給取りの会社員に見える(笑)」
 という絵文字つきの返事が届いた。
 台風の翌日独特の、無神経なほどに美しい青空だった。足許(あしもと)の散らかり具合に反して、空気は町全体を清浄機にかけたかのように澄んでいた。
 十月というのに、朝から真夏のように蒸し暑く、約束の正午には、気温は三十度に達しつつあった。街ゆく人々も、ほとんどが半袖で、ノースリーヴの女性もちらほら目についた。
 四季の変化がおかしな具合になって以来、夏服をいつしまうべきか、というのは、この時季のお決まりの、誰にでも通用する無難な話題だった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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