本心<134>

2020年1月22日 02時00分

第七章 転機

「イチイチ返事、要らないから。――硬い?」
「少し硬いです。」
 僕は、マスクメロンの複雑な網目模様は、成長の過程で、皮のヒビ割れを修復するために作るかさぶたのようなものなのだという話を、何となく、思い出した。その起伏を掌(てのひら)に感じ、両手にメロンの香りが移るのを想像しながら、傷めないように底に指で触れた。
「他のは?」
 僕は、一つずつ順に、すべてのメロンを手で確かめ、一番熟れているものを指差(ゆびさ)して、
「これが良いと思います。」
 と応えた。
「二個いるんだよ。」
「すみません、そうでした。では、もう一つはこれだと思います。」
「なんか、小さいな、それ?」
「そうですか?……ここで見ている分には、特にそう感じませんけど。」
 僕は、メロンがよく見えるように顔の前に持ち上げた。
「いや、小さい。」
「店員に、他にあるか訊(き)いてみましょうか?」
「ダメだな、ここ。日本橋のデパートに行って。」
「……ここで買わずにですか?」
「そうだっつってんだろ?」
 僕は戸惑ったが、応諾の返事をして、棚にメロンを戻し、店を出た。
 自動ドアが開くなり、外の熱気は、忽(たちま)ちにして僕を呑(の)み込み、逃げ場もなく閉じ込めた。駅まで歩く間にまた汗を掻(か)いた。僕は、混み合う銀座線に乗って、言われた通りに日本橋まで行った。その間、依頼者は何か別のことでもしているらしく、ずっと無言だった。僕は、彼に気づかれぬように、こっそりネクタイを緩めた。
 デパートは、駅に直結していて、僕は地下の食品売り場で、先ほどと同じようにメロンを探した。平日の日中だが、酷(ひど)く混み合っていて、大半は中高年の女性だった。
 みんな、僕とは違って、自分の意思で惣菜(そうざい)や生鮮食品、お菓子などを求めて歩いている。――しかし、そうなのだろうか? 確かに今、誰かに操られているわけではない。家族に事前に指示された、という人も、多くはあるまい。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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