本心<126>

2020年1月14日 02時00分

第七章 転機

 皮肉を言いたいわけではなかったので、僕は笑わずに問うた。三好は、ソファの上で膝を抱えて、小さく嘆息した。避難所生活で疲弊している彼女に、こんな議論を持ちかけてしまったことを後悔した。
「いつか、あっちの世界に行きたいなって、思う。お金の心配、しなくていい世界。そこで、また勉強したい。大学に行き直して、人から敬意を払われる人生を生きたい。」
「それは、……わかりますけど、こっちの世界が残ったままあっちに行っても、気分が良くないんじゃないですか? 全体として、この社会がもっと公平にならないと。」
「抜け出すだけで、精一杯(せいいっぱい)よ、今は。あっちに行ってから、そういうこと、考えるようになるのかもしれない。――わたしにしてみたら、朔也(さくや)君だって、あっちの世界の人よ。こんな家、わたし、住んだことないもの。」
「まさか。……それは、母ががんばって働いて、遺(のこ)してくれましたけど、遠からず、出ないといけなくなると思います。今のままだと、ここのローンも多分、払いきれないんで。」
「お母さん、お金遺してくれなかったの?」
「VF(ヴァーチャル・フィギュア)買うのに、生命保険も大分使ってしまったので。」
「え、……そう?」
 三好は、唖然(あぜん)としたような顔で僕を見ていた。僕は、顔を下に向けると、麦茶のコップに手を伸ばした。
「やっぱり、世の中全体がもっとよくなってほしいです。生まれた時から、貧富の差がこんなにあって、どっちの世界に生まれるかで人生が決まってしまうっていうのではなくて。なんで日本は、こうなってしまったのか。……」
「それはもちろん、そう思うけど、……現実的に無理でしょう? すごく長い時間をかけて、こうなっちゃってるんだし、日本だけじゃなくて、世界中がそう。日本が全部ダメになって、貧しいばかりで格差がなくなるより、どこかに豊かな、まだ大丈夫だって思える場所が残っててほしい。そういうのって、希望って言えない? もっと悪くなるの、怖いもの。」
「そのうまくいってる世界を、映画か何かみたいに、憧れながら見てるんですか?」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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