本心<127>

2020年1月15日 02時00分

第七章 転機

「そうね、映画みたいかも。……でも、映画は実在しない世界だし、スクリーンの中にも入れないけど、あっちの世界には、ひょっとしたら行けるかもしれないでしょう? それが細(ささ)やかな希望。ほとんど無理だって、わたしだってわかってるけど。」
「なんか、……それでみんな、セレブのSNSをフォローしたりするんですかね。あっちの世界を、せめて疑似体験するために?」
「そうでしょう? わたしも何人かフォローしてる。自分では絶対に足を踏み入れられない世界の経験、シェアしてくれるから。プライヴェートジェットの中を見せてくれたり、有名人ばっかりのパーティに行ったり。」
「自慢されてるみたいで、嫌じゃないですか?」
「そう? その人たちだけで独り占めするよりいいと思うけど。」
 僕は、現実には独り占めしているのだと、その欺瞞(ぎまん)を更(さら)に指摘しようとしたが、三好は、この議論そのものに倦(う)んだように、曖昧に頷(うなず)いて、もう何も言わなかった。
 僕も、彼女と議論したかったわけではないので、そのきっかけを逃さず、口を噤(つぐ)んだ。会話には、<母>とのやりとりにはない一種の緊張感があり、それは、相手を怒らせてしまうかもしれない、という危惧の故だった。
 他方で、僕は人に命じられるがままの言葉を発している勤務中とは違って、自分の考えを口に出来ることの喜びを改めて噛(か)みしめた。岸谷が逮捕されてしまったために、生きている人間で、そういう相手は、今はもう三好だけだった。彼女の気分を害してしまったのではないかと、不安になった。
 三好は、抱えていた足を床に下ろすと、少し疲れたように、
「とにかく、……事情聴取は大変だったね、朔也(さくや)君も。」
 と口を開いた。僕は、彼女の髪が、いつの間にかかなり乾いているのを見ながら、この話題の潮時を受け容(い)れた。ダイニング・テーブルに半身を預けたまま、
「はい、でも、大丈夫です。」
 と頷いた。
 一種の気づかいから、僕はこのあと、一時近くまで三好の避難所での生活について話を聴いた。彼女自身も、そのつもりもないまま、語り出すと止まらなくなった風だった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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