本心<129>

2020年1月17日 02時00分

第七章 転機

 そしてふと、三好がウイルス性の腸炎などではなく、何か深刻な病気だったならと、一人になったリヴィングで考えた。
 僕は彼女を、看病し続けることが出来るだろうか? たとえその気持ちがあったとしても、経済的には、あっという間に破綻してしまうだろう。
 僕は、カーテンを閉めず、夜の窓ガラスに映った自分の姿を見つめた。それは、単なる反射であり、ガラスの中に僕の心があるわけではない。けれども、僕は、母に安楽死の意思を告げられたあの滝の記憶と結びついた、三島由紀夫の小説の一節を、また思い出した。
「これほど透明な硝子(ガラス)もその切口は青いからには、君の澄んだ双の瞳も、幾多の恋を蔵(ぞう)すことができよう」
 僕が映っているというより、この部屋に独りでいる僕が映っている。それはまるで、ガラスの中に作られた僕の V F (ヴァーチャル・フィギュア)のように、何か心らしきものを繊細に表現している。
 僕は、その僕の本心を問うように、母のことを考えた。
 あり得たであろう母の介護を、僕は結局、経験しなかったのだった。それは、母がさせようとしなかったと言うべきかもしれない。
 母は、今のこの部屋の光景を、逆の立場から想像していたのだろうか? つまり、自分が薄暗い部屋で終日寝たきりでいて、ドアが開いて、息子が介護しに来てくれることをじっと待つような生活。……
 三好が復調し、一週間経(た)ったところで、僕たちは、二人の共同生活を「ルームシェア」という言葉で整理し直した。
 部屋を所有しているのは僕であり、その正確な定義には当て嵌(は)まらないのかもしれないが、ともかく、言葉によって状況を明確にする必要があった。
 三好は僕に二万円の家賃を支払うことになり、電気代やガス代、食費や洗剤、トイレット・ペーパーといった生活用品の費用を、二人で折半することにした。それを機に、僕は彼女の部屋から母の持ち物をすべて片づけ、自室に引き取った。僕の部屋は、そのために、一層、母の記憶が濃くなった。
 彼女は、僕との共同生活を気に入ったらしく、出来ればここにもう少しいたいと言った。僕は信頼され、感謝されていることが嬉(うれ)しかった。彼女は、「お金を貯(た)めたい」とも言った。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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