本心<124>

2020年1月12日 02時00分

第七章 転機

 僕は、母の体に触れることが、少年期以降はまったくなく、そのことが、母の死後の喪失感を一層強くしていたが、浴室は、一種の間接的な抱擁だったのかもしれないと、初めて思った。そして、その考えに細(ささ)やかな慰めを求めた。
 曇った鏡にシャワーをかけると、いつまで経(た)っても母との生活の記憶から抜け出すことの出来ない、貧しい、無力な男の顔がちらと覗(のぞ)いて、またすぐに隠されてしまった。
 体を洗い、自分が無言であることを、不自然に意識しながら、湯船に浸(つ)かった。しばらく膝を抱えてじっとしていたが、その縛(いまし)めるような腕を解くと、大きく息が漏れた。天井の照明が、湯気を微(かす)かに煌(きら)めかせていた。
 パジャマ代わりのTシャツに短パンでリヴィングに戻ると、三好は、ソファの背もたれに体を預けて、仮想現実の中にいた。何かを操作しているらしく、腕がずっと動いていた。
 僕の気配に気がつくと、持参したピンク色のヘッドセットを少しずらして、
「しばらく留守にしてたから、連絡が届いたり、色々あって。」
 と言った。
「どうぞ、気にせず続けてください。」
 僕は、彼女のコップに麦茶を注(つ)ぎ足し、自分も一杯飲んだ。
 就寝前にリヴィングで<母>と会話をするのが習慣になっていたが、しばらくはそれも難しいだろうか。
 三好は、ヘッドセットを外すと、
「朔也(さくや)君、そう言えば、話したいことがあったみたいだけど?」
 と尋ねた。湯上がりの素顔は、化粧水のやさしい光沢を灯(とも)していたが、整形手術を繰り返したという目鼻は、寛(くつろ)ぐことなく冴(さ)えていた。
 僕は、前財務大臣を狙ったテロ事件の容疑者が仕事先の友人で、僕自身も事情聴取を受けたという話をした。
 三好は、事件のことは知っていたが、あまり詳しくなく、「えーっ、……」と驚いた様子だった。僕は、尋ねられるままに、岸谷のことを語ったが、犯行動機となると、うまく説明できなかった。彼が、指示内容を知りつつ従ったのかどうかも、依然として不明だった。
平野啓一郎・作、菅実花・画)
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