<東海第二原発 再考再稼働>(22)茨城ではまだ間に合う 「30年中間貯蔵施設地権者会」会長・門馬好春さん(63)

2021年2月1日 07時46分
 十八歳で上京するまで暮らした福島県大熊町の実家は、東京電力福島第一原発の目と鼻の先にある。昨年十二月、約一年ぶりにふるさとに帰省した。浜通り(福島県の海沿いの地域)では珍しく雪がちらつく寒い日だった。
 十年前の原発事故後、実家周辺の土地の大部分は、放射性物質を含む除染土の中間貯蔵施設になっている。除染土入りの黒いフレコンバッグ(土のう袋)が、前回来た時より高く積み上がっていた。
 実家の敷地の空間放射線量は、東京都心の百倍近い毎時三マイクロシーベルトほど。長時間は過ごせない。思い出の品を少しだけ回収して、後ろ髪を引かれながら戻ってきた。原発事故はふるさとの全てを奪ってしまった。戦争でさえ、ふるさとまでは奪わなかったのに。
 国は中間貯蔵施設の建設に向け、当初は福島第一全体を囲む千六百ヘクタールの国有地化を目指した。実家の家屋や田んぼの土地も含まれていた。
 その後、石原伸晃環境相(当時)が「最後は金目でしょ」と放言し、なし崩しで最終処分場にされかねないと懸念していた地権者たちが猛反発。国は全面国有地化を断念し、地権者は土地を三十年間貸すか、売るか、選ぶことになった。
 ところが国は、貸した場合の地代補償額の算定で、本来のルールと異なる独自の基準を示し、売った方が有利になるように仕向けてきた。売却に応じた地権者も多いが、被災者でもある地権者をだますようなやり方はいけない。
 二〇一四年末、私を含め国に不信感を持った人たちで地権者会を設立。法律が定める中間貯蔵期限の四五年三月までに除染土を確実に県外搬出するスケジュールの明示と、ルールに基づく地代補償への転換を求め、環境省との団体交渉を六年以上も続けている。だが、環境省は独自の補償基準を適正だと主張し、改める姿勢を見せていない。
 原発事故さえなければ、ふるさとから追い出されることもなく、国を相手にこんな大変な交渉をする必要もなかったのに、といつも思う。
 茨城県には縁がある。三十数年前に福島第一の施設運営の仕事に携わった時、東海村にある動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現・日本原子力研究開発機構)の寮に四十日間住み込み、放射線防護の講習を受けたことがある。
 親戚や、原発事故で避難した知人・友人も住んでいる。福島の浜通りでとれるメヒカリなどの魚は茨城でも水揚げされ、ともに「常磐もの」と呼ばれるふるさとの味。だから、日本原子力発電東海第二原発(東海村)の再稼働問題はひとごとと思えない。
 茨城は福島より東京に近い。東海第二で万が一のことがあれば、首都圏にもたらす被害は福島事故以上になる。しかも、運転四十年超の原子炉をさらに二十年動かすという。数年前に六十歳で定年退職した私に、まだ二十年働けと言っているようなものだ。
 地権者会を続けていて実感するのは、住民が団結して意思を示せば役所は無視できないということ。東海第二の再稼働には周辺六市村の事前同意が必要だ。地元が声を上げれば再稼働は止められる。福島では間に合わなかったが、茨城ではまだ間に合う。茨城の皆さんには、私たちのような目に絶対に遭ってほしくない。 (聞き手・宮尾幹成)
<もんま・よしはる> 1957年、福島県大熊町生まれ。県立双葉高を卒業後、東京で会社員として働きながら専修大の夜間過程を修了。80年代に5年間、東京電力福島第一原発の施設運営に関わった。2014年12月に「30年中間貯蔵施設地権者会」を設立、18年5月から会長を務める。

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