渋沢栄一の理想の街 田園調布 100年息づく精神 新紙幣と大河で脚光

2021年2月2日 07時08分

東急東横線田園調布駅(上方中央)から放射線状に広がる田園調布の町並み=本社ヘリ「おおづる」から

 新1万円札の「顔」に選ばれ、14日スタートのNHK大河ドラマの主人公にもなった実業家の渋沢栄一(1840〜1931年、写真、国立国会図書館所蔵)。「日本資本主義の父」は晩年、緑豊かな理想の住宅地づくりを目指した。それが現在の大田区田園調布。開発から約100年がたった今でも、渋沢翁の理念を守る取り組みは続いている。
 東急・田園調布駅には、赤い屋根の洋風建築の駅舎が立つ。ホームは地下で、実際は使われていない。旧駅舎は二三年に完成し、地下化工事で九〇年に解体。地元の要望で二〇〇〇年に復元され、街のシンボル的な建物となっている。
 「駅の西口から放射線状に五本の道路が広がっているでしょう。パリの凱旋(がいせん)門の周辺を参考にしたそうです」。駅周辺の町会「田園調布会」の佐々木勇副会長(64)が教えてくれた。
 大正時代、畑が広がっていた一帯を宅地に開発したのが一九一八年設立の「田園都市株式会社」。実業界を引退した渋沢栄一が、発起人の筆頭になった。
 田園調布会の資料などによると、当時は東京の中心部は急激な人口増加で、家がひしめき合っていた。渋沢は、イギリスで提唱されていた自然豊かな「田園都市」の創設と、都市集中の弊害を唱えた。
 放射線状の道路や、上から見ると扇形の区画は、欧米を視察した四男の渋沢秀雄(一八九二〜一九八四年)が主導した。二三年に売り出した当初は、中流のサラリーマン向け。直後に関東大震災が起き、軍人や裕福な人々が移り住み、高級住宅地になった。
 当時、一区画の目安は百五十坪という広さ。緑化のため、塀ではなく生け垣を設けるよう求められた。建物は「三階建て以下」「敷地は宅地の五割以内」「周りに迷惑になるような外観にしない」などと取り決められた。
 高度成長期以降は、高騰した地価の相続税を支払うため、敷地を分割して売る住民が続出。区画の細分化が進んだ。防犯で塀を設けた住宅も少なくない。

田園調布の歩みを語る「田園調布会」の佐々木勇さん

 住環境を維持しようと、田園調布会は八二年、「創設者渋沢翁の掲げた街作りの精神と理想を知り、自治協同の伝統を受け継ぎましょう」などとする「田園調布憲章」を制定。建築規制や緑化を申し合わせ、区も開発を制限している。
 駅西口の住宅地では、建物は二階建て以下で、高さ九メートルまでに制限。敷地の境には原則、植栽の生け垣を設け、塀をつくるなら一・二メートル以下を求める。区画は最小でも五十坪。住宅建築は事前に図面や模型を見せてもらい、景観維持のための希望を伝えている。
 佐々木さんは「街のイメージが独り歩きしがちだが、個々の家が大きいとか立派とかはどうでもいい話。街全体で見た時、緑に包み込まれるような、豊かな環境を子や孫に残したい」と語る。
 自身は渋沢栄一にゆかりがある。曽祖父の佐々木勇之助は、渋沢が起こした第一銀行の二代目頭取。父親は戦時中、空襲で港区の自宅が焼け、隣の渋沢家に身を寄せていた。
 「渋沢は『自分の幸せは周りが幸せになった時』と考えた。その理念で街づくりをすれば、住民が協力して豊かな環境をつくり、維持することにつながる。社会全体が利己的になりがちな今こそ、新紙幣や大河ドラマを機に、渋沢の理念が広まってほしい」。佐々木さんは願っている。
 文・宮本隆康/写真・佐藤哲也、嶋邦夫
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紅葉が有名なイチョウ並木=大田区提供


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