泉麻人 絶対責任編集 東京深聞 《東京近郊 気まぐれ電鉄》 昭和おもいで電車(その2)『カナリア色の山手線とオレンジ色の中央線』

2021年2月10日 12時04分

目白に住んでいた子供時代

<昭和おもいで電車>というサブタイトルで以前、地下鉄丸ノ内線と銀座線にまつわる思い出話を書いたけれど、今回はその第2弾として山手線と中央線(総武線)を取り上げようと思う。
 本題に入る前にこの「山手線」の呼び名、現在はYAMANOTEの表記が各所に記されて、「やまのてせん」が定着しているけれど、僕の子供時代は「やまてせん」が一般的だった。もっとも、明治18年に品川・赤羽(池袋を北上した赤羽線も含んでいた)間で開業した当初は「やまのて」の読みだったという。つまり、都心西側の山の手を走るという意味だったわけで、実際下町側の東京・上野間がつながって環状型になるのは関東大震災後の大正14年のことなのだ。
 そんな山手線のわが家からの最寄り駅は目白だった。この駅、いまも駅ビル化されていない(目白通りの対面に「トラッド目白」というショッピングモールはある)けれど、50年も前は灰色っぽい地味な屋根をのせた、田舎の貨物駅みたいな駅舎だった。実際、隣接して日通の貨物取扱所があって、坂下の山手線の脇に貨物線路が何本か敷かれていた。この場所は今JRのホテルやマンションや切手の博物館の建物なんかになっている。そういう新しい施設に変わる前(昭和の終わりから平成10年頃までだったか…)、使われなくなった貨物線路に古車両を使ったダイナーレストランのようなのがあって、カード手品のアトラクションを眺めたおぼえがある。
 目白駅——目白通りに面した駅舎こそ改築されたが、ホームへ下っていく2つの階段の位置は昔と同じだ。改札をくぐって右側の階段を降りるとすぐにホームに行けるが、草花の鉢植えなんかが置かれた左側の通路をしばらく歩いて、ホームの中ほどに下りていくのが僕は好きだった。この駅は近くに川村女子や日本女子などの女子学校が多いのでコンコースも穏やかなムードが漂っている。

僕が記憶に残る山手線

 さて、山手線といえば「ヨドバシカメラ」のCMソングを思い浮かべる方は多いだろう。新宿西口(つまり昔の淀橋)に本拠があったこの店が頻繁にCMをやるようになったのは70年代の後半あたりからだったと思うが、冒頭に出てくる「山手線」も当初はヤマテセンといっていたはずだ。そのうちヤマノテセンに改められたのだ。緑一色のカラーが白銀ステンレスに緑帯の車両に変わった頃だったかもしれない。
 もっとも、ヨドバシカメラの歌詞には「緑」とあるけれど、70年代には濃いエメラルドグリーンの電車が常磐線にも走るようになっていた。山手線は黄緑に近い色で、当初から「ウグイス色」と表現されていた。
 しかし、僕が最初に意識した山手線の色はこのウグイス色ではなく、淡い黄色をしていて、カナリア(イエロー)色と呼ばれていた101系の車両だった。後に総武線に移行するカラーの車両だが、僕は大もとの鳥のカナリアより先に、山手線の色称でカナリアの色を知った。それまでの焦茶の旧車(63系や73系)に変わって、このカナリア色の電車が山手線にお目見えしたのは1961年というから、僕は5歳児、まさに電車の型や色に興味をもつ年頃である。
 実際、カナリアイエローの山手線が走っている姿を眺めたい方は、DVDも発売されているクレージーキャッツ・植木等の“無責任男シリーズ”の初作「ニッポン無責任時代」(1962年)をチェックしてほしい。植木が相手役の重山規子(団令子、中島そのみとともに“お姐ちゃん”シリーズの映画をヒットさせた)と恵比寿駅近くの道端で立ち話する場面の背景をカナリア色の山手線がスーッと通過していく。
 カナリア色の101系に変わって、ウグイス色の103系(当初はフロントライトが1つ目の101系だったはずだ)が山手線に導入されたのは1963年頃というから、案外早いのだが、ウグイス色に統一されるまで4、5年くらいは要った記憶がある。目白のホームで、ウグイス色の山手線を初見した時のことは妙におぼえている。電車がホームに入ってきたときではなく、新宿方面へ行く電車を待ちながら池袋の方に目を向けたとき、いつもの黄色ではない緑っぽい電車が小さく見えて、それが段々と近づいてきた。あの目を疑うようなショットは今も忘れられない。

独特の文化発祥地「中央線沿線」の街

 首都圏でカラフルカラーの電車が最初に導入されたのは、中央線だった。いわゆる「ラインカラー」(首都圏の各線をわかりやすく色分けする)の先駆けとなったオレンジ(朱)色の101系車両が中央線にデビューしたのは1957年、僕が生まれた翌年だ。もちろん、デビューしたての頃の記憶はないけれど、幼児の頃に行ったオモチャ屋の品棚に、オレンジ色の中央線のブリキ玩具が「こだま号」なんかと並んで堂々と飾られていた光景が目の底に刻まれている。
 前に丸ノ内線の思い出を書いたときにもふれた「乗物画集(4)」(講談社)という1961年刊行の絵本に、赤い丸ノ内線とオレンジの中央線が交差するお茶の水の川端景色が描かれているから、この2線の派手な車両が交差する聖橋手前のポイントは“伸びゆく新しい東京”を象徴する場所だったのだろう。
 わが家から一番近い中央線のポイントは、山手通り(環6)をずっと南下していったところの東中野。もっともこの駅は総武線の各駅が停まるだけで中央線は通過してしまう。
 中野まではよくバスで出掛けたが、ここから中央線に乗って西の郊外の方へ繰り出すようになったのは70年代の中頃、高校から大学生になる時期だ。フォークやロックのシンガーソングライター全盛の頃、吉祥寺や国分寺、国立…といったあたりに彼らミュージシャンが根城にする喫茶店やアンティークの店などがある、と音楽雑誌(「guts」というのが人気だった)や深夜のラジオ番組で情報を仕入れて、特集ページに載ったイラストマップなんぞを手引きに中央線に乗って聖地探訪に行った。オレンジ色の中央線は、そんな時代のサウンド(初期のRCサクセションや古井戸…)と重なり合っている。
 そう、中央線や山手線の線路端の電線鉄塔などに、ひと頃までタテ長の広告看板がよく張り出されていたものだ。たとえば「ノザキのコンビーフ」それから「ヒフ病 おでき薬局」というのが思い出される。
 ノザキのコンビーフの方はいまもスーパーなどで商品自体を見かけることがあるけれど、「おでき薬局」というのはかなりコアな広告主である。子供の頃にその看板を目にしたとき、妖怪マンガに出てくるような、あやしい薬屋を想像した。看板には<大森>の地名表示もはいっていたので、90年代の初め頃に意を決して探しに行った模様が当時のエッセー本『地下鉄の友』に綴られている。

昭和時代の日常が綴られているエッセイ本。(著者私物の写真)

 昭和3年に創業した、おできに効く漢方薬局の本舗で、巨大なおできのオブジェが掲げられているような奇天烈な店ではなかった。いまも大森で営業を続けているが、10年ほど前まで大森のホームの一角に1枚だけ保存されていた看板は撤去されてしまったようだ。大森は京浜東北線の沿線だから、子供の頃に山手線車中からその看板をよく見かけたのは、京浜東北が並走する田端や日暮里のあたりだったのかもしれない。
 その日暮里で山手線から乗りかえる常磐線は、お墓参りのときによく使った電車なのだが、この話は書き出すと長くなるのでまたの機会に改めたい。

PROFILE


◇泉麻人(コラムニスト)
1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。近著に『夏の迷い子』(中央公論新社)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)、『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』(三賢社)、『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』(新潮新書)、『東京いつもの喫茶店』(平凡社)、『大東京のらりくらりバス遊覧』(東京新聞)などがある。『大東京のらりくらりバス遊覧』の続編単行本が2021年2月下旬、東京新聞より発売される。



◇なかむらるみ(イラストレーター)
1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。著書に『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日記』(文藝春秋)がある。
https://tsumamu.tumblr.com/
<登録無料! 東京新聞ほっとメルマガ配信中>
コンテンツの更新情報やメルマガ会員限定のチケットや書籍のプレゼント情報など月に2回配信中。メルマガのお申し込みはこちらから。
 
東京新聞のご購読・無料ためしよみのお申し込みはコチラから

関連キーワード

PR情報