<東海第二原発 再考再稼働>(24)安らぎ奪う事故 想像を 福島県浪江町から鉾田に避難・菊地孝さん(78)

2021年2月3日 07時11分
 今年の年賀状に「あれから十年だ。どうしている? 浪江が恋しい」と書いてきた友人が三人ほどいる。
 東京電力福島第一原発事故で、ふるさとの福島県浪江町を追われた。今は娘夫婦がいる鉾田市で、家を建てて住んでいる。
 浪江町に月に一度、様子を見聞きしに戻るが、ゴーストタウンのように変わり果てたのを見るのはつらい。あったはずの金物屋や焼き鳥屋は解体され、昔の面影はない。寂しい大通りは見たくないので、なるべく通らないようにしている。
 最も心の負担になっているのは、ふるさとから追われたことだ。町はあるが、もとの町の風景ではない。約二万一千人いたはずの町民は、千五百人程度しか戻ってきていない。戻りたいと思えるような魅力はないからだ。そう思うのは、自分だけではない。
 東海村の日本原子力発電東海第二原発の周辺に住む住民には、今の浪江を歩いてもらいたい。自分の街がこのようになったらと想像しながら歩いて、官民で意見交換をしてもらいたい。
 原発事故で多くの財産や安らぎを失った。
 妻の和江は筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し二〇一九年に亡くなった。避難で住まいを転々とし、まじめな性格から適応できず、ストレスもあったのではないかと思う。
 娘は結婚して独立し、話し相手もいない。話をしに飲食店に行きたくても、胆のうと胃の大半を摘出し、一人前が食べきれず、申し訳ない気持ちから、次第に足は遠のいた。有料チャンネルをいくつも契約し、映画を見て過ごしている。
 東日本大震災が起きた一一年三月十一日午後二時四十六分は、福島県南相馬市の老人ホームに仕事の用で、着いたところだった。乗っていた車が、前後に一メートルずれるほど揺れた。
 帰り道、海岸から約一キロ離れた踏切から見た津波は車やがれきを巻き込みながら陸に襲いかかり、逃げるのを忘れて二、三分見入ってしまったほどだった。この時はまだ、原発の不安は頭によぎらなかった。
 午後四時ごろ、原発から直線距離で約十キロの家に戻った。水道は止まったが、電気はつき、テレビで周囲の状況を知ることができた。原発の惨事は翌日になって起きた。一号機の水素爆発もテレビで見た。まさかと思った。
 消防団員に促され、慌ただしく通帳や数日分の着替えだけをかき集めて、車で避難した。道路は渋滞し、思うように進まない。流れに逆らい、北に向かった。東京電力や国から、情報提供や適切な避難場所の指示もなかった。
 避難圏内の住民がより多い東海第二原発が、もし事故を起こしたら、福島以上に混乱するだろう。
 東京電力からの慰謝料は月に十万円、事故後七年間にわたり振り込まれた。東海第二で事故が起きれば、賠償金は膨大になる。慰謝料を払う余力は、電力会社にも国にもないはずだ。そのリスクを負ってまで、原発は本当に必要なのだろうか。 (聞き手・保坂千裕)
<きくち・たかし> 1942年、福島県浪江町生まれ。隣町の県立双葉高を卒業後、千葉や仙台で材木業の修業を経て、浪江町で73年に材木会社を設立。原発事故直後の2011年3月15日から、避難先の鉾田市で暮らしている。

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