本心<57>

2019年11月3日 02時00分

第五章 “死の一瞬前”

 看護師が冷たいお茶を持ってきてくれた。
「お母さんは残念でしたね。最後は事故だって?」
 僕は、ええ、と頷(うなず)いた。患者ではないからか、顔見知りの年長者らしい口調だった。僕はそれを喜ばなかったが、ふと、自分の着ている服が、あまりに粗末だからではあるまいかと、普段は考えないことを気にした。なぜかはわからない。記憶にないが、僕は三年前にここを訪れた時と、同じ――着古した――服を着ていたのではないだろうか。
 しかし、彼がそのままこちらを見ている理由は、どうも違うらしく、ほど経て僕は、ようやく、その「事故」という言葉に彼が含ませたところを察した。僕の驚きは、怒気の手も引いていた。
「母は旅館で働いてたんですが、……そこに配達するドローンを、カラスがいつも狙ってたんです。食べ物目当てか、ただ遊んでたのか。」
「多いんだ、それが今。東京で、ドローン事故対策の撲滅作戦やってから、カラスが大分、こっちに逃げてきてるからねえ。」
「それで、通勤途中の母の上に落ちてきたんです、大きなドローンが。僕はぶつかったんじゃないかと思うんですが、現場検証では、当たってはいない、ということになりました。ドローンの会社の責任も問えないと。」
「労災は?」
「出ましたけど、多少。――とにかく、それで直接というのではなくて、その弾みに、母は、驚いて側溝に落ちてしまったんです。それは、ドローンの映像記録に残ってました。病院に運ばれるまでは息があったようですが、結局、そのまま亡くなりました。」
「お気の毒に。修繕してないような道路もいっぱいあるからね、今は。あなたは、死に目には結局?」
「いえ、……僕は上海に出稼ぎに行ってましたので。」
「かわいそうに。――ああ、あなたもだけど、お母さんが。……」
 富田はわざわざ、そう言い足した。彼が、僕に対して抱く軽蔑は、母への遠慮がなくなった分、隠し方がぞんざいになっていた。
 僕は、なぜだろうかと、ふと思った。安楽死を願う者の意思を、家族が理解せぬことなど、ありきたりな話ではあるまいか?
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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