本心<18>

2019年9月24日 02時00分

第二章 告白

 それでも、ところどころ、木の根が隆起し、苔(こけ)が生(む)した足場の悪いところもあり、母は、やっぱり、自分ではここに来れなかったと思うと僕に言った。
 道は、鬱蒼(うっそう)とした木々に覆われていたが、川の真上にまでは岸から枝が伸びきれず、殊に、崖から流れ落ちてくる滝には、空からまっすぐに光が注がれ、それが広く開いた滝壺(たきつぼ)に、目を射るような煌(きら)めきを絶え間なく満たしていた。
 間近で霧雨を浴びるような大きな滝もあれば、その激しさを足許(あしもと)に見下ろす滝もあった。
 水は、底が見えるほどに透徹していたが、全体に分厚いガラスの断面のような深緑色をしていた。
 少しあとになって、僕は三島由紀夫(みしまゆきお)の初期短篇(たんぺん)の中に、こんな一節を見つけた。
「これほど透明な硝子(ガラス)もその切口は青いからには、君の澄んだ双の瞳も、幾多の恋を蔵(ぞう)すことができよう」
 僕がその時に思い出したのは、ガラスではなく、この滝の水の色だった。必然的に、「君」の役割は母に宛(あて)がわれることになったが。
 実際、母は、歳(とし)を取って瞼(まぶた)が落ちてきてからも、目の綺麗(きれい)な人だった。
 僕は母と、何を話しただろうか?
 母は、「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢(あ)はむとぞ思ふ」という、崇徳院(すとくいん)の和歌を、独り言のように口にして、その通りね、と言った。
 僕は、「誰か、再会したい人がいるの?」と、冗談のように訊(たず)ねたが、母は笑って何も答えなかった。
 奇妙に孤立した会話の一往復だった。
 岩間を抜けて流れる浅瀬の水は、川底の起伏をなめらかになぞって、周囲の岩のかたちと親和的だった。
 水に近づけばひんやりと感じられ、離れれば如実に気温が上がった。
 七つ目の「大滝(おおだる)」と名づけられた滝がハイライトで、僕は母の勧めで、その傍らにある温泉宿で休んでから帰ることになっていた。
 滝は、見上げるような大きさで、僕たちは、轟音(ごうおん)の直中(ただなか)で、小さな静謐(せいひつ)を分かち合っていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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