本心<13>

2019年9月19日 02時00分

第二章 告白

 母の後半生の労働が、この小高い丘の上に建つマンションの三階の一室に捧(ささ)げられたという考えは、僕を打ちひしがせるに十分だった。決してその努力に値しないものにさえ、手が届かない努力。――しかしそれは、他でもなく、僕との生活のためであり、事実、僕はこの部屋への愛着も、他方では否定できないのだった。
 建築は、一瞬ごとに物理空間から、記憶の中へと存在を移動させ続ける。僕をいさせてくれる今のこの場所は、数秒後には、もう僕の中にしか居場所がないのだった。
 母の生命保険の一部を、 V F (ヴァーチャル・フィギュア)の支払に充てると、ローンは完済できなくなる。いずれは、ここも退去すべきだろうかと思うと、街の眺めも、急に惜しくなる。
 蝉(せみ)の力強い鳴き声に、古い建物の全体が浸されていた。
 静寂の中にも、特別な静寂がある。人が鍵を掛けて出て行った部屋にだけ、こっそり姿を現す、臆病な珍獣のような静寂が。――しかし、この時には、なぜかまだ、僕がいるというのに、その静寂が部屋に忍び込んできたのだった。それで僕は、しばらく息を潜めて、朝の光が、大きな首をゆっくりともたげるように高くなってゆくのを見ていた。
 青空は、僕に何も考えさせないほど澄んでいた。
 そのあと起きたことは、いかにも不思議だった。
 きっと、僕の体が感じ取れないほどの小さな地震でもあったのだろう。不意にリヴィングのドアが開いた。何かを言おうとして、口を開きかけた時のような微(かす)かな音を立てて。
 昨日の経験が、僕の現実を瞬く間に乗っ取った。
 ドアの陰には、母が立っている気がした。そして、今にも姿を現して、「おはよう。」と僕に声をかけるのではないかと想像して、慄然(りつぜん)とした。
 起き抜けの母のあの柔弱な笑顔。……
 いつもそうだったはずだった。
 僕は、半開きのまま止まっているドアを見つめた。その裏側で、銀色のノブに触れようとして躊躇(ためら)っている手を想像した。
「お母さん、……」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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