岩手・大船渡のカトリック教会 祈り、壁を越え響く 多国籍信者の居場所に

2019年12月21日 02時00分

ミサで神父から「ご聖体」(パン)を授かるフィリピン人の菅原エルバさん(中)と日本人の信者ら=岩手県大船渡市で(芹沢純生撮影)

 日曜の朝、畳敷きの小さな聖堂に、柔らかな歌声と電子オルガンの優美な音色が響き渡る。
 「アマナミン スマサランギッカ サンバヒン アンガランモ」(天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように)
 フィリピンのタガログ語の「主の祈り」。両手を天に向けたり、胸の前で手を合わせたり-。思い思いの姿勢で、日本人とフィリピン人、ベトナム人の信者が祈りをささげた。
 岩手県大船渡市の小高い丘の上に立つ、瓦屋根のカトリック大船渡教会。かつて信者の中心は高齢の日本人だったが、八年前からフィリピン人女性たちのにぎやかな声が聞こえるようになった。最近は、ベトナム人の技能実習生の姿も。
 「最初は日本人との間に壁があった。お互い遠慮もあったし」。フィリピン人の菅原エルバさん(58)は、そう打ち明ける。彼女たちの多くは一九八〇年代以降に来日し、日本人と結婚した「フィリピン嫁御(よめご)」だ。
 すべてが変わったのは、二〇一一年三月の東日本大震災。真っ黒な大津波は、この小さな漁師町で多くの命と家々をのみ込み、奪い去った。
 かろうじて被災を免れた聖堂に、フィリピン人女性とその子どもたちが「新しい居場所」と通い始め、信者は倍増。他の教会では見られない現象だった。
 教会は今、こう呼ばれ始めている。「ウェルカミング チャーチ」(誰をも受け入れる教会)。国籍や年代、文化-。震災を機にあらゆる「壁」が取り払われ、新たなコミュニティーへと生まれ変わった教会を訪ねた。  (太田理英子)

「震災で失ったものは多いけど、出会いや交流が生まれてにぎやかな教会となった」と語る信徒会長の菅原圭一さん

◆母国語でのミサ

 「神様、助けて」。二〇一一年三月、激しく揺さぶられる岩手県陸前高田市のアパートで、三浦ローズマリーさん(51)は生後六カ月の長男浩志君(9つ)を抱き、必死に叫んだ。
 ダンスショー関係の仕事でフィリピンから来日した一九九五年、県内で日本人の夫と知り合い、翌年に結婚。当時は日本語や和食の作り方が分からず、夫の実家ではただニコニコと笑顔を浮かべることしかできなかった。
 三浦さんら「フィリピン嫁御(よめご)」の大半は、カトリック教徒。仏教徒が多い日本人の家庭では肩身が狭く、信仰したくてもなかなか教会に通えずにいた人が多かったという。
 東日本大震災で、三浦さんは高台にある夫の実家に逃げたが、自宅は跡形もなく流された。その後も、繰り返す余震におびえた。「この子を守りたい。また津波に流される前に、洗礼を」。震災から三カ月後、浩志君を連れ、カトリック大船渡教会に駆け込んだ。
 教会では、被災した同郷の女性たちと出会った。目の前で義母が津波に流された人や、職場を失った人、慣れない避難所暮らしを送る人-。互いに不安を吐露し、神父や日本人信者も寄り添ってくれた。
 女性たちはミサに通い始め、一一年秋からは日本人信者と一緒にタガログ語の「主の祈り」をささげるようになった。三浦さんは「タガログ語だと気持ちが込められるし、教会にいると心が静かになる。生きるために通ってる」と言う。
 今では、家族も教会に通うことを理解してくれている。「今まで気持ちを隠してきたけど、夫にははっきり言うようになった。震災で強くなったよ」と笑みをこぼす。

ミサの後に開かれた茶話会で談笑するベトナム人実習生のグエン・ティ・ロアンさん(中)とフィリピン人の菅原エルバさん(右)

◆地域の仲間として

 「震災前は、この地域にこんなにフィリピン出身の信者がいるとは思わなかった」。信徒会長の菅原圭一さん(64)は、そう振り返る。
 県などによると、フィリピン国籍の県内居住者は、入管難民法が改正された一九八九年時点で百八十五人。年々増加し、昨年末は過去最多の千三百三十四人に達した。その多くが、就職のために来日し、日本人と結婚した女性たちや技能実習生だ。
 震災で教会の納骨堂は流され、日本人信者五人が犠牲に。被災信者を探し、菅原さんが神父と大船渡市や陸前高田市の避難所を訪れると、大勢のフィリピン人女性たちと出会った。信者だが教会の場所を知らない人もいたといい、一人一人に声を掛けた。「ミサへいらっしゃい」
 二〇一一年五月、「カトリック東京国際センター」の協力でタガログ語のミサを行うと、二十畳の聖堂に入りきらないほどのフィリピン人女性たちが詰め掛けた。中には、母国語のミサが三十年ぶりという人も。女性たちは涙を流して祈り、喜んだ。
 その姿に、菅原さんら日本人信者の心が動いた。「地域に嫁いできてくれた大事なお嫁さん。教会を支える仲間として迎えよう」。毎週、ミサの主の祈りは日本語とタガログ語で行うことに決めた。
 初めは同じ国の信者同士で固まりがちだったが、神父らが食事の機会などを設け、徐々に言葉が交わされるようになった。菅原さんは「漁師町の土地柄、元々外から来る人を珍しがり、歓迎する気質があるから歩み寄れたんでしょう」と言う。
 フィリピン人女性たちは子どもを連れて通い始め、震災前は百人ほどだった信者数は約二倍に膨れ上がった。高齢化で長年途絶えていた洗礼式も行われるように。フィリピン人信者でつくるグループ「パガサ(希望)会」も立ち上がり、代表メンバーは教会運営を担う一員になった。
 菅原さんは「以前は私が一番若い信者だったのに。一気に元気でにぎやかな教会になった」と胸を張る。

聖書を朗読する三浦ローズマリーさん(左)と、神父を補佐する「侍者」として付き添う長男の浩志君=いずれも岩手県大船渡市で

◆年代も関係なく

 ミサには今春ごろから毎週、近くの食品加工会社などで技能実習生として働くベトナム人の若い女性たちも加わるようになった。
 ある日のミサで、信者を代表し、日本語で聖書朗読した実習生グエン・ティ・ロアンさん(21)。ミサが終わると、日本やフィリピンの女性らが手を取ってねぎらった。グエンさんが「緊張した」と漏らすと、菅原エルバさん(58)は「一番いいのはゆっくり読むこと。だんだん上手になるし、皆分かってくれてるよ」と励まし、力強く抱き締めた。
 ミサの後には、聖堂の隣の部屋で茶話会「お茶っこ」が始まる。信者らが持ち寄った菓子を広げ、世間話に夢中になる。グエンさんも、毎週顔を出す。「日本語のテキストを持って行くと、おばあちゃんたちが教えてくれるし、楽しいですよ」
 国籍や年代に関係なく、それぞれが教会を支える。以前はミサでおもちゃ遊びをしていた浩志君も、昨年から神父の補佐をする「侍者(じしゃ)」を務める。落ち着いて進行を支え、今では欠かせない存在だ。
 震災後に主任司祭を務めた森田直樹神父(54)は「皆を歓迎するこの教会は、日本の教会の未来の姿なのかもしれない」と実感する。近年、日本で働く外国人は増加し、国内のカトリック教会でも外国出身の信者が増えつつある。「私たちはたえず、本当に誰をも受け入れられるのか試されている」
 教会周辺では堤防工事や建物の建築が進み、がれきや泥にまみれた街並みの面影は消えつつある。大切な人や場所を失った心の傷は癒えないが、新たな絆が支えになった。
 エルバさんは「大変な時に助け合ったから、皆ファミリーみたい。つらいことがいっぱいあったけど、津波があったから私たちはつながることができた」と力を込める。
 この先にどんな困難があっても共に乗り越え、生きる力が与えられるように-。信者たちは祈り続ける。 (文・太田理英子/写真・芹沢純生、太田理英子)

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