<よみがえる明治のドレス・5>「新衣」ドイツ製大礼服か 洋装への使命感、歌に託す

2021年2月11日 07時22分

昭憲皇太后の肖像写真=学習院大学文学部史学科蔵

 新衣(にひごろも)いまだきなれぬわがすがたうつしとどむるかげぞやさしき
 一八八九(明治二十二)年、明治天皇の后(きさき)、昭憲皇太后(美子(はるこ)皇后)が詠んだ御歌(みうた)だ。洋装化に向き合う使命感からだろうか。新時代の息吹と高揚感が伝わってくる。「新衣」とは同年六月、写真撮影に臨んだ皇太后が着用していた大礼服とみられるが、現存は確認されていない。肖像写真から浮かぶ「新衣」とは。
 「洋服を取り入れるということは、髪形から立ち居振る舞いに至るまですべての生活様式が一変することで、宮中の女性たちにとってもたやすいことではなかった。着慣れぬ戸惑いもあったであろうが、洋装化に向き合う一種の高揚感も伝わってくる一首です」
 『昭憲皇太后からたどる近代』(ぺりかん社)の著者で学習院大学講師の小平(おだいら)美香さん(日本思想史)は、皇太后が一八八九年に詠んだ御歌をこう分析する。明治神宮が編さんした『類纂新輯(るいさんしんしゅう)昭憲皇太后御集』などでは、この御歌は「写真」と題された二首のうちの一首で、新衣とは、この年に撮影された皇太后着用の大礼服の可能性が高いと、小平さんは推測する。
 『明治天皇紀』などによると、皇太后が洋装姿で撮影に臨んだのは八九年六月十四、十五日。撮影用に臨時に設けた皇居内の部屋で、写真師の鈴木真一と丸木利陽(りよう)が撮影した。
 皇太后の肖像は、丸木ら二人が撮影した写真のほか、その写真をもとにイタリア人画家のエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画が広く知られている。皇太后の写真は、明治天皇の「御真影」とともに欧州の王室など世界各国に贈られたが、写っている皇太后の大礼服は、日本に現存している三着の大礼服とも明らかに違う。

 矢澤弦月「昭憲皇太后像」=お茶の水女子大学蔵

 この大礼服はいつ、どこで仕立てられたものか。
 「八六年にドイツに注文して調製された第一号の大礼服の可能性が高い」。中世日本研究所長のモニカ・ベーテさんはこう指摘し、八六年十月二十日のベルリンの新聞「ベルリナー・ターゲブラット」の記事に注目する。
 ベルリンで皇太后のドレス完成を報じた記事には、ダッチェスサテンを使用したドレスのアンダースカートと金糸のブロケードで仕上げられたオーバースカート、四メートル以上もある赤紫のベルベットにロシア産の黒テン毛皮があしらわれたトレイン、胸元が深く開いたローカットのボディスのほか、扇や白い長手袋、ハンカチーフなどの小物に至る特徴が詳細に記されている。ベーテさんは「記事に書かれていることは、肖像写真で識別できる」と話す。
 肖像写真の撮影から約一カ月後の東京日日新聞は、写真の大礼服について「御服は洋製」と報じている。
 ドイツ製の大礼服は、ティアラなどの宝飾品とともに、首相兼宮内大臣の伊藤博文がドイツ公使を務めた青木周蔵らを通じてドイツに注文し、八七年一月一日の新年拝賀の時に皇太后が初めて着用した大礼服だ。大礼服と宝飾品に要した費用は日本円で約十五万円。総理大臣の年収が約一万円の時代で、欧化政策の舞台となった洋館・鹿鳴館(ろくめいかん)の総工費(十八万円)にほぼ匹敵する巨額な予算が投入された。

1886(明治19)年10月20日のベルリナー・ターゲブラット紙

 しかも、モードの中心とはいえないベルリンに注文されたのはなぜか。
 大阪市立大都市文化研究センター研究員の柗居(まつい)宏枝さんは「青木周蔵の義兄にあたるドイツ人貴族を介して大礼服を購入することが可能であったことに加えて、ドイツ皇室に範をとる伊藤博文の皇室外交方針が深く関係する」と指摘する。
 大日本帝国憲法(明治憲法)発布を前に、日本が幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正をめざし、宮内省顧問としてドイツ人のオットマール・フォン・モール夫妻を招聘(しょうへい)するなど、ドイツ宮廷をモデルとした宮中改革が急ピッチで進められようとしていた。皇太后の洋装化と大礼服購入はその政策の柱だった。
 文・吉原康和
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