<スポーツ探偵>ベーブ・ルース 野球の神様 習志野に足跡

2021年2月12日 07時13分

谷津球場に到着したベーブ・ルース(右)。習志野市教育委員会に残る貴重な一枚=いずれも市教育委員会提供

 米大リーグを代表する強打者で「野球の神様」と呼ばれたベーブ・ルース(1895〜1948)。第2回日米野球で来日した際、熱烈な歓迎を受けたが、最初にプレーした場所が千葉県習志野市だったことを知る人はあまりいない。歴史に埋もれたルースの習志野滞在記を探った。

◆来日初練習 谷津球場で

 ルースが日米野球に出場するために来日したのは、一九三四(昭和九)年十一月二日のことだった。ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスら大リーグのスター選手とともに全国各地で親善試合を行い、話題を集めた。
 四日に行われた開幕戦が神宮球場だったため、日本で初めてプレーした場所は神宮球場だと思われているが、真実は違う。開幕前日の三日。ルースら大リーグ選抜は千葉県習志野市の谷津球場に姿を現した。

リーフレット「谷津遊園案内」に掲載された打撃練習するルース

 全日本チームと合同練習を行うためだった。「ルース、来(きた)る!」の一報はすぐに広まり、三千人収容のスタジアムに二万人が詰め掛けた。圧巻は打撃練習。軽々と場外ホームランを連発する大リーガーに大声援が飛んだ。
 当時の様子を「知る」人を見つけた。京成電鉄・谷津駅近くで理容室を営む黒澤豊さん(76)は先代で父の三郎さんから話を聞いた。「相当な騒ぎだったようです。父は仕事をサボって見に行ったのですが、同じような人で球場に入りきらない。『押すな押すな』で木製の外野フェンスが壊れてしまったと聞きました」
 さて、ここで二つの謎が浮かび上がる。最初の疑問は、なぜ、初練習が谷津だったのかということだ。
 実はこの球場は大リーグ選抜と対戦する全日本チームのために造られたものだった。当時の資料によると、京成電気軌道(現京成)の後藤国彦専務が趣旨に賛同し、自社が運営する谷津遊園内に練習用のグラウンドを造って提供した。これが谷津球場だった。試合ができる規模のスタンドがなかったため、日米野球の主催者・読売新聞が来日初練習を行う場所に指定。恩に報いたという。

ルースの顔が描かれた第2回日米野球のポスター=いずれも野球殿堂博物館で

 もう一つの謎はなぜ、ルースは日本でそんなに人気があったのか。答えは米作家ロバート・K・フィッツ氏が書いた「大戦前夜のベーブ・ルース」の中に出てくる。
 フィッツ氏はこの中で戦前の日本人が大層野球好きで、米国の野球にも興味津々だった事実を記している。二七年に六十本塁打を放った「野球の神様」ルースのことも「野球雑誌で紹介され、何百万という読者がそれを目にしていた」。ルース人気は絶大で彼らは甲子園や名古屋、函館など全国で十八試合を行うのだが、どの試合も大盛況だったという。

黒澤さんが寄贈した「Babe Ruth」のサイン入りボール

 ルースは習志野に逸話を一つ残して去った。ホームランボールを拾った黒澤さんの父・三郎さんがベンチに届けると、異国の大声援に感激し、上機嫌でサインして渡してくれたという。「Babe Ruth」と書かれたそのサインボールは文京区の野球殿堂博物館に寄贈され、大切に保管・展示されている。

◆華やかな遊園 夢の跡

1931年ごろの谷津遊園を描いた絵はがき=習志野市教育委員会提供

 谷津球場があった谷津遊園は関東有数の娯楽施設だった。上野から成田まで路線を拡張した京成電鉄が沿線開発や行楽客誘致のため、一九二五(大正十四)年に塩田を埋め立てて開業した。
 約三十万平方メートルの園内には動物園や植物園があり、海水浴、潮干狩りができる遊園地として人気を博した。中央にあった楽天府は俳優・阪東妻三郎が使った映画撮影所で、日米野球の前には全日本チームの合宿所にもなった。
 このときの全日本メンバーは沢村栄治、スタルヒン、三原脩、水原茂ら。沢村が日米野球第十戦(静岡・草薙球場)で八回を投げ、9奪三振1失点の快投を見せたのは有名な話だ。このチームが巨人軍の母体となったため、現在、球場跡地の谷津バラ園の前には「読売巨人軍発祥の地」の碑が残されている。
 昭和四十年代にはレジャーブームに乗り、国内初の宙返り型ジェットコースターなどアトラクションも導入して話題を集めた。大正から昭和にかけ、関東の家族連れを楽しませた谷津遊園だが、京成電鉄が東京ディズニーランドに経営参画するのに合わせ、惜しまれつつ閉園した。八二(昭和五十七)年のことだった。
 文・谷野哲郎
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