第3部 義足の可能性(5) 自分のため走り続ける 将来のパラ出場を見据え練習

2020年2月2日 02時00分

将来のパラリンピック出場を目指す湯口英理菜=横浜市青葉区の日体大横浜・健志台キャンパスで

 どこから見ても、人間とは全く違う脚。ぐにゃりと曲がった競技用義足が、以前は好きじゃなかった。
 日本体育大一年の湯口英理菜(19)には両脚がない。足が内側を向く内反足の状態で生まれた。成長しても歩けるようになるのは難しいと診断され「物心つかないうちに」と、三歳で大腿(だいたい)骨の下から切断した。
 小学校には日常用の義足で歩いて通った。外を駆けずり回って遊ぶ友達を、横目で見ているだけ。「一緒にやりたい。走ってみたい」。思いが募る。
 走るって、どんな感覚なんだろう。
 分かったのは中学生になってから。脚を切断した人のアスリートクラブ「スタートラインTOKYO」に通い、板バネと呼ばれる競技用義足と出合った。初めは立つことさえおぼつかなかった湯口は今、陸上の百メートルと二百メートルで、自身の競技クラスの世界記録を持つ。
 競技用義足を日本で広めパラアスリートを支えてきた義肢装具士の臼井二美男(64)がクラブを主宰する。東京都内で一九九一年から練習会を開いているが、両脚とも太ももに義足を装着する大腿義足のメンバーは、湯口が初めてだった。
 両肩を支えてもらって姿勢を保つところから、走れるようになるまで一年かかった。感覚をつかむと、どんどん楽しくなった。月一回の全体練習だけでは物足りず、平日夜の有志の練習にも参加した。
 板バネを「かっこいい」と言う人もいる。でも、当時の湯口は「あまり見せたくなかった」。市民ランナーが集う場所では、誰かがそばに来ると陰で休んだ。
 高校でも初めは義足を隠したが、ある時、周囲に打ち明けた。「パラ陸上の大会、見に行くよ」と応援してくれた。
 二年生でやっと百メートルが走れた。パラリンピックが、夢になった。
 三年生になるころ、出場を目指していた東京大会の百メートルで、自身の競技クラスが実施されないと知る。両脚とも大腿義足では走ること自体が難しいとされ、世界でも選手はわずか。陸上を続けるか悩み、他の競技にも目を向けシッティングバレーも始めた。
 でも「どうせ私にはできない」とマイナス思考だった自分を変えてくれた陸上が、やっぱり良かった。「陸上に出合い、頑張ればいろんな可能性があるんだという気持ちが強くなった」
 昨春、日体大に入学し、パラアスリートを受け入れている陸上競技部でトレーニングを積む。着実に走力をつけ、昨年六月に二百メートル46秒69、翌月に百メートル19秒06の世界記録を出した。パラリンピックの陸上で唯一競技クラスがある走り幅跳びも練習し、将来の出場を見据える。
 走り続けるのは自分のため。自信がなくなりそうになったら、言い聞かせる。「私は走ることができている。だから、何があっても大丈夫」。今は胸を張って「これが、自分を支えてくれる足」と言える。 =敬称略、おわり
 (この連載は神谷円香が担当しました)

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