<首都残景>(21)奥多摩湖 水底の古里 望郷の風音

2021年2月21日 07時03分

小河内ダム(右下)と奥多摩湖=奥多摩町で、本社ヘリ「おおづる」から

 東京都の水がめである奥多摩湖。この山間のダム湖が日本中の耳目を集めた時代がある。
 首都の安定的な水源確保を求めて、東京市会が多摩川本流に水道用ダムを建設する計画案を可決したのは一九三二(昭和七)年だった。だが水利権を巡る交渉などいくつもの事情で着工は三八年まで遅れた。
 この間、ダムで水没する小河内(おごうち)村(現奥多摩町)、山梨県小菅(こすげ)村、丹波山(たばやま)村の住民たちは翻弄(ほんろう)された。用地買収が進まないために移転はできない。将来が見えないため生産意欲は衰える。窮状を訴えるため住民六百人が集結して都心に向かおうとし、警官隊に止められる騒動も起きた。
 そうした姿を作家石川達三が小説「日蔭(ひかげ)の村」でルポルタージュ風に描くと、社会問題となり、多くの文化人が視察のために奥多摩に足を運んだ。当時の流行歌手、東海林太郎が歌った「湖底の故郷」は人々の涙を誘い、大ヒット曲となった。

湖底からポンプ施設でくみ上げられる鶴の湯源泉。温泉はトラックで各旅館などに運ばれる

 日中戦争の泥沼化もあり工事は中断、ようやく竣工(しゅんこう)したのは太平洋戦争が終結し十二年が過ぎた五七年のことだった。
 旧小河内村出身で奥多摩町に住む岡部義重さん(84)は自宅移転時は中学二年生だった。
 「稲作はできずに麦やアワ、ヒエを作って暮らす村でしたが、親や祖父母の世代には移転を嫌がり、泣いている人もいましたよ」。岡部さんも移転後に冠水前の家の跡地に行き、懐かしんだこともあったという。「それでもお国のためと言われれば文句も言えない時代でした」
 旧小河内村に人が住んだ歴史は古く、江戸時代に湯治でにぎわった鶴の湯温泉もあった。
 冠水した湖のほぼ中央部に岬があり、湖底に消えた九社十一祭神をまとめた小河内神社が鎮座している。毎年九月に昔の村人などが集まり、国指定重要無形民俗文化財の鹿島踊りや獅子舞などを奉納してきたが、昨年はコロナ禍で中止になった。

小河内ダムの底に沈む小河内村について歌った「湖底の故郷」の歌碑

 八十四年前、石川はダム工事の発破の音を「都会文明の勝利の歌、機械文明のかちどきの合唱」と書いた。今、小河内神社から暗緑色の湖面を眺めると、梢(こずえ)を震わす風の音しか聞こえない。
 文・坂本充孝/写真・戸田泰雅
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 【訂正(2月23日)】一番上の写真説明で「写真中央の半島には温泉街だった湖底の旧小河内村から移転された小河内神社がある」としていましたが、小河内神社のある半島は写真中央ではなく、奥の別の場所でした

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