二・二六事件から85年 ある少尉の決断と回顧 「なぜ殺害は起きたのか」問い続ける遺族

2021年2月26日 07時14分

雪降る中、日比谷公園付近を行進する鎮圧部隊 =1936(昭和11)年2月26日から29日までの間のいずれか

 85年前の1936(昭和11)年2月26日、東京を震撼(しんかん)させる事件が起きた。旧陸軍の青年将校による二・二六事件だ。心ならずもこの事件に参加し、免官された士官の遺族は「なぜ事件は起きたのか」を問い続ける。

任官間もないころの今泉義道少尉=1935年10月撮影、今泉章利さん提供

 今泉義道少尉は蹶起(けっき)部隊の一つ、近衛歩兵第三連隊の第七中隊で初年兵教官を務めていた。前年十月、陸軍士官学校を出て少尉に任官したばかりの二十一歳。初年兵八十四人の基本教育を担当中に事件に巻き込まれた。戦後、手記を残し、事件を振り返っている。それによると−。
 二月二十六日に代休が取れた今泉少尉は前夜、鎌倉の実家に帰るため隊舎(現在の赤坂・TBSの付近)を出て山王下から市電に乗ろうとしたが、降り続く雪のためか来ず、タクシーも止まらなかった。やむなく隊に戻って就寝。二十六日午前二時ごろ、中隊長代理の中橋基明中尉(刑死)らに起こされた。「おい今泉、いよいよやるぞ、昭和維新の断行だ」と蹶起への参加を求められ、「行く、行かないの判断は貴公の判断に委(まか)す」と告げられた。
 襲撃プランも知らされ、体中の血が一時に止まる。今泉少尉は「あまりに突然で決心しかねます。兵隊を連れて行動することも不同意です。まず私を斬(き)ってから出かけてほしい」といったんは拒否した。
 軍律違反、初年兵、阻止、自決…、さまざまな思いが渦巻く。手塩にかけた初年兵らが無理やり参加させられると思うと、「兵隊を救うのが自分の務め」と翻意し参加を決断。両親らに遺書を残し、宮城(皇居)に向かった。
 特設軍法会議では反乱罪で禁錮四年(求刑同七年)の判決。免官され、中野刑務所に入所。三八年十一月に出所後は上海に渡り、汽船会社に入社。四六年引き揚げた。

今泉義道さんが献花と清掃を欠かさなかった渋谷区の二・二六事件慰霊像

 手記によると、巡礼先の四国遍路の旅で海岸にたたずんでいると、刑死した将校らの声が聞こえてきたという。これをきっかけに九五年に八十一歳で亡くなるまで、毎月、二と六の付く日、渋谷の二・二六事件記念慰霊観音像の清掃と献花を絶やさなかった。
 事件関係者の慰霊や慰霊像を管理する仏心会の監事でもある次男章利さん(71)=千葉県柏市=は「閉門して連隊長に申告するなどして事件を阻止もできず、父にも負い目があった」と打ち明ける。章利さんは東京地検に保管されていた軍法会議の資料を丹念に読み込み、事件を調べた。「青年将校を決起にまで駆り立てたのは何だったのか」。農村の疲弊などが噴出した社会の悲劇を「(昭和)天皇を取り巻く人が伝えていない。天皇に実情を知っていただきたい。そう信じて行動した」と指摘する。
 「殺害された警察官やその遺族を思うと、いたたまれない」と打ち明け、「なぜ人を殺さなければならなかったのか。殺害行為ですべてが吹き飛んだ。正論も」と強調する。
 事件後、陸軍内で皇道派を一掃し実権を握った統制派は強硬路線をひた走り、亡国の戦争に行き着く。「事件で統制派にバトンが渡り、不幸な道が開かれた」とも章利さんは訴える。
 麻布十番の賢崇(けんそう)寺には刑死、自決した青年将校らをまつる「二十二士の墓」がある。今泉さんは「いずれ歴史家が(事件を)評価してくれるだろう」と話していたという。今年、事件から八十五年を迎えた。

「なぜ事件は起きたのか」と問い続ける今泉義道さんの次男章利さん=千葉県柏市の自宅で

<二・二六事件> 陸軍内で皇道派と呼ばれた一部の青年将校らが「昭和維新」を求めて、歩兵第1、第3連隊、近衛歩兵第3連隊の約1500人を率い、1936(昭和11)年2月26日未明に起こしたクーデター未遂事件。複数のグループに分かれて高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを暗殺、鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)に重傷を負わせたほか、警視庁などを占拠。襲撃された側の死者は、殉職した警察官5人を含め9人。昭和天皇は激怒し、決起部隊は「反乱部隊」に。軍部は4日間で鎮圧した。事件後、皇道派は一掃され、統制派が陸軍の要職を占めた。青年将校らは上告なし、弁護人なし、非公開の特設軍法会議で審理され、17人に死刑判決(このほか2人が自決)。うち15人にはわずか5日後に執行された。このほか思想家の北一輝(いっき)、西田税(みつぎ)の2人も死刑となった。
 文と写真・加藤行平
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