<月刊・掌編小説>車の中 鴻上尚史 作

2021年3月1日 15時00分

画・小河奈緒子

 N市主催のワークショップが無事に終わったところで、北川俊太郎は、駅まで車で送りますと、中年の男性に声をかけられた。
 男性は、高村と名乗った。地元で社会人劇団を主宰している演出家だ。50歳代の真中ぐらいに見えるが、ひょっとしたらもう少し歳上かもしれない。少し小太りだが、表情にエネルギーを感じる。
 演劇をしていると、顔も体も歳よりは若くなるというのが北川の持論だ。健康になるし、好奇心が老化を遅くする。
 実際、今日の参加者も、地元で演劇を続けている人達だったが、みんな、実際の年齢よりは若く、エネルギッシュに感じた。
 発声練習で横隔膜を動かし、演技レッスンで全身に神経を配れば、身体もリフレッシュするだろう。
 高村は、俳優ではなく演出家なので、体は少し猫背気味で動きも遅かった。それでも、俳優に混じって汗をかきながら動いている姿には、精神の若さを感じた。
 北川俊太郎は39歳。東京在住のプロの演出家であり、N市の教育委員会から、地元の演劇関係者を指導して欲しいと呼ばれたのだ。
 口をきいたのは高村だった。
 案内された市民センターの駐車場には、高村の自家用車が停めてあった。来た時はタクシーだったが、帰りの予算はないということだろう。
 車に乗ろうとすると、今日のワークショップに参加していた中年の女性が近づいてきた。女性は微笑みながら、「今日はどうもありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
 高村は、自分の劇団の女優だと紹介し、「それから……」と一瞬、言葉を止めた。
 女性が高村を見て、意味ありげな表情になった。その雰囲気を察して、「奥さんですか?」と北川は先に声をかけた。
 二人は少し照れてうなづいた。「駅まで送らせて下さい」女性は明るい表情で言った。「尾崎美帆と言います。芸名です」
 40代の後半に見えるけれど、実際は50代の真中ぐらいかもしれないと北川は思った。ワークショップの時のエネルギッシュな演技を思い出していた。健康的な体から年齢に相応しい色気が発散していた。高村の劇団でずっと主演を務めている雰囲気がある。
 高村が運転席、尾崎が助手席に座った。後部座席は北川だけだった。
 予算の関係で自家用車かと思ったけれど、二人が最後まで自分と一緒にいたいからかもしれないと北川は思った。N市まで来てくれた彼らなりの感謝の印として。
「駅まで15分ほどです」アクセルを踏みながら高村が言った。
「御夫婦で劇団ですか」北川が思わず話しかけた。
 二つの背中が小さく「ええ」と動いた。高村の後頭部は少し薄くなり、地肌が見えていた。尾崎は肩までの髪が小さく揺れていた。「劇団はどれぐらいやられているんですか?」北川は、流れる風景を見ながら話しかけた。特徴のない地方都市の街並みだった。
「もう41年です」尾崎が少し後ろを向いて答えた。
 北川はその数字に驚きの声を上げた。
 北川もプロの劇団の代表だが、まだ17年だ。22歳で旗揚げして、山あり谷あり、どうにかこうにか解散しないでここまで来た。
 それに比べると、アマチュア劇団とはいえ、41年も続けられていることに、無条件で尊敬の感情がわき上がってきた。
 劇団はもろい。それは当事者だからこそ分かる。同志的結合だからこそ、簡単に潰れるし、簡単に解散する。気持ちはすぐに変わるのだ。
 劇団がもめる二大要因は、恋愛問題と経済問題だと北川は思っている。芸術上の対立とか作品の方向性の違いなどという観念的なことは、人間を根本からは揺さぶらない。
 41年ということは、20歳で結成したとしても61歳だ。やはり二人は若く見える。
 御夫婦で結成されたのですかと聞くと、尾崎が「いえいえ、旗揚げした時は、演出家と新人女優でした」と、運転している高村を楽しそうに見た。
「あらら。じゃあ、演出家が新人女優を口説いたんですね。『劇団あるある』ですか」ワークショップを無事終えた解放感が加わって、北川が陽気な声を出した。
「まさにそうです」尾崎も楽しそうな声で返した。演劇界では有名な北川と話すこと自体が嬉しいような雰囲気だった。
「41年も続けてると、いろいろあったでしょう」北川の言葉が思わず優しくなった。
「ありましたねえ」尾崎はしみじみとした口調になった。
 高村は黙って運転している。妻と北川との会話の反応は、背中からは分からない。
 尾崎が何か言い出すかと北川は待っていたが、尾崎は前を向いたままだった。
「演出家が他の女優に気持ちが移るなんてことはなかったんですか?」北川が職業演出家としての好奇心に負けて質問した。これもまた「劇団あるある」だろう。
「ありましたよ」尾崎はすぐに当然のように答えた。
 一瞬、運転している高村の背中がぴくりと動いた。
「本人はバレてないと思ってたんですよね。バカですよねえ」尾崎は陽気な声だった。
 北川は二つの背中を見比べた。
「あたしが30代の後半でしたけどね。新人の女優でしたよ。私、彼の作品で主役をやってたんです。彼のオリジナルで。千秋楽の打ち上げで、彼女が私に花束を渡す係だったんですよ。いえ、任命したのは彼です。その子、ニコニコしながら私に花束を渡したんですよ。どんな気持ちだったのかなあって、今でも思いますね」
「おい。何言い出すんだよ」ようやく高村が口を開いた。怒っているというよりは、戸惑いの方が大きいようだった。そういう性格なのか、北川がいるから真剣に怒れないのか。それとも、妻がこのことを言うのは初めてで、本当に驚き戸惑っているのか。
「平気な顔して私にもその子にも、演出するんですよ。私、ずっと演出受けながら、『あなたはどう思っているの?』って言葉がリフレインしてたんです。『あなたは納得してるんですか?』って。あたしは納得できないんですよ」
 尾崎は、興奮するわけでもなく、落ち込むわけでもなく、なじるわけでもなく、言葉を続けた。北川がいることで、初めて自分の感情を語れることに感謝しているような響きさえあった。
「おい」高村が小さく声を出したが、あまりに弱くて尾崎には届かなかった。
「あたしの人生はあたしが選んだ人生で、いろんな選択肢が、たくさんあったんです。私は自分の選んだ選択肢に納得したいんです。この選択肢が良いとか悪いとかじゃなくて、納得したいんですよね」
 尾崎はそこまで言って、黙った。
 北川は、二つの背中を見ながら困惑していた。かける言葉が見つからなかった。
 目の前には41年という時間を背負っている背中が二つあった。
 北川が沈黙に耐えきれなくなり、うめき声が出そうになった時に、「着きました」という高村の静かな声が聞こえてきた。
 車はゆっくりと駅前に止まった。
 高村と尾崎は、両側のドアを開けて車の傍に立ち、駅に入っていく北川を見送った。
 北川が振り返ると、高村は微笑みながらお辞儀し、尾崎も微笑みながら手を振っていた。
 今から二人は家に帰るのだろうと北川は思った。二人だけの車内でどんな話をするのだろう。それとも何も話さないのだろうか。

鴻上尚史さん(ⓒTOWA)

鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)作家・演出家。1958年愛媛県生まれ。81年に劇団「第三舞台」を結成し、作・演出を手がける。近著に『何とかならない時代の幸福論』(朝日新聞出版)、『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書)など。次回公演は、5月15日より六本木トリコロールシアターにて『アカシアの雨が降る時』を予定。

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