<ふくしまの10年・もう一度 弾きたい>(1)生きるのが苦しい
2021年3月2日 06時49分
二〇一一年三月十一日、東日本大震災の巨大津波が太平洋沿岸を襲った。福島県の死者・行方不明者は千八百十人に上る。
いわき市の高橋咲栄(さきえ)さん(44)の実家は、南相馬市原町区にあった。海岸から約八百メートル離れている。オロオロする母親からの電話に、言葉を失った。
「買い物から戻ったら、家がないのよ。おじいさんとおばあさんが…」
信じられなかったが、内陸にある実家を津波がさらっていった。高橋さんの祖父愛原勇夫(いさお)さん=当時(87)、祖母トミ子さん=同(87)=の遺体は、しばらく見つからなかった。
祖父は大工だった。身体が弱くて入退院を繰り返したが、若い時には実家も自らの手で建てた。
祖母は野菜作りの名人だった。高齢になっても畑に出て、トマトにキュウリ、大根と見事に育てた。
高橋さんが幼い頃、共働きの両親に代わり、見守ってくれた祖父母だった。
近所の家々も流された。冷たかったでしょう。苦しかったでしょう。
「たくさんの人が死んでしまったの」。高橋さんは友達の前で泣き崩れた。
実は震災の半年前、高橋さんは次男佑輔(ゆうすけ)ちゃんを事故で亡くしている。生後五カ月だった。
高橋さんは、母親として自分を責め続けた。
「私が目を離さなければ、佑輔は死なずにすんだ」
そこへ祖父母の死が重なり、原発事故が追い打ちをかけた。長男の命は放射線から守ろうと、夫と三人で約三カ月、関西地方に自主避難するうち、食事や睡眠を十分とれず、やせ細っていった。暗闇にいるようで、生きるのが苦しかった。
なんとかして前向きに−。自問自答の中、ピアノのことを思い出した。
◇
長期連載「ふくしまの10年」の新シリーズ「もう一度弾きたい」(全五回)を始めます。家族を亡くしたり、家を失ったりした被災者の中には、音楽を心の糧にして絶望から立ち直った人もいます。「不要不急」と思われがちな楽器、ピアノに託した思いを伝えます。(臼井康兆が担当します)
◇ご意見はfukushima10@tokyo-np.co.jpへ
PR情報