篠田桃紅さん死去 美術家、水墨で抽象表現

2021年3月4日 07時16分
 墨と金銀箔(はく)による幽玄な抽象画で知られる美術家の篠田桃紅(しのだとうこう)(本名満洲子(ますこ))さんが一日、老衰のため東京都内の病院で死去した。百七歳。葬儀は、近親者で済ませた。喪主はめいの爽子(そうこ)さん。
 旧満州(中国東北部)大連生まれ。書家の父・頼治郎に伝統書道を学び、後に墨を使った抽象芸術に転向した。一九五六年に渡米、ニューヨークで水墨表現の可能性を探った。帰国までの数年間に欧米各地で個展を開き、国際的に高い評価を受けた。代表作に国立京都国際会館のレリーフ「展開」と壁画「出遇」、東京・芝の増上寺本堂の壁画など。
 すがすがしい文章の随筆家としても知られ、七九年にエッセー集「墨いろ」で日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。百歳を過ぎても精力的に活動を続け、二〇一五年刊行の「一〇三歳になってわかったこと」は約五十万部のベストセラーに。今春も「これでおしまい」と題した発言録を出す予定で、準備を進めていた。
 映画監督の篠田正浩さんはいとこ。建築家の若山滋さんはおい。

◆独創的な作品を追求

<評伝> 「わがままと言われましたよ。けれどあたくしは、あたくしに似合うものをと思っていただけ」
 百四歳の時のインタビューで、篠田桃紅さんが発した言葉が、深く印象に残っている。「個性なんていう言葉は使われなかった」という戦前の女学校で、自分の気に入る形に制服のスカートのひだを改造した思い出話。独創的な作品世界の根にある自身の性質をよく表していた。
 墨の線の濃淡で表現される篠田さんの抽象画は、多様な表情のなかに、凜(りん)とした美しさが宿る。二十代から書家として活動したが、次第に書の枠を超えた創作に向かった。子供のころから、習字で手本をまねることに、違和感があったという。「だって偽物を作るっていうことでしょう。それがうまいとお点が良くなるって、変じゃない」。あらゆる「決まりごと」にとらわれず、自身の美を追求した。
 本質を見抜く眼力は、美術だけでなく、文筆でも発揮された。百歳を超えて刊行したエッセー集は、長い創作歴ならではの人生の機微がつづられ、多くの読者に親しまれた。だがこれらの本についても「話題になるのは、私が珍獣だからでしょ。この年の人が何を考えているのか、みんな知りたいのね」と、絶妙な言語センスで、ずばり言い切る。そして「私はみんなが珍獣であればいいと思う。人のことなんか気にしないで、自分なりのやり方を通せばいい」と笑った。
 伸びた背筋で、晩年まで「もっといいものを」と筆を執った。作品に引かれた無数の線は、篠田さんの存在感とともに、多くの人の心に残り続けるだろう。 (中村陽子)

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