<いばらき震災10年>三線に込めた心の音 「放射能はふるさとを喪失」  「流浪」の避難生活 鎌田昭三さん(77)

2021年3月5日 07時17分

三線を奏でる鎌田昭三さん。東京電力福島第一原発事故で、福島、沖縄、そして鹿嶋へと避難を余儀なくされた=鹿嶋市で

 東京電力福島第一原発事故の後、福島県南相馬市から沖縄・宮古島、そして鹿嶋市へと避難を続けてきた男性がいる。精神科病院の看護師だった鎌田昭三さん(77)。沖縄で始めた三線(さんしん)の調べには、患者やスタッフと散り散りになった悲しみと、避難先で人の輪に溶け込んだ喜びが交錯する。「原発を持つということは、ふるさとを捨てる覚悟を持つこと」と脱原発を説く。 (出来田敬司)
 二〇一一年三月十一日の地震発生直後。入院患者約五十人を屋外に避難させた。小雪が舞う阿武隈の山から北西の冷たい風が吹き抜ける。グラウンドにブルーシートを敷き、布団を出して患者に暖を取らせた。
 病棟は地震の被害をほとんど受けなかったが、原発事故による放射能汚染で避難を余儀なくされ、患者とスタッフ計約六十人の「流浪」の生活が始まった。南相馬から福島県内のいわき、南会津へ。避難先でも放射線量が高いことが分かったり、精神疾患の患者の受け入れが難しかったりして、なかなか避難先を確保できなかった。
 十七日夜、患者は東京都内の病院に引き取られることになった。一方、スタッフは違った。「私たちはこれからどうなるの」。ミーティングでそう叫んだ女性の看護助手もいた。翌日、病院から十万円を手渡され、それぞれ離散。一人暮らしだった自身は、川崎市に住む長男宅に身を寄せた。
 「沖縄で被災者の受け入れ、やってます」。事故から約一カ月、テレビ番組が目に入った。行ったことすらなかったが、沖縄なら原発とは無縁だ。早速、沖縄の自治体に電話をかけた。「男、独身、六十七歳」。そう言うと、多くの自治体に断られたが、離島の宮古島市が受け入れてくれた。
 島に来て二年目のある日。建物の二階からたおやかな三線の音が流れてきた。石垣にもたれながら調べを聴いた。ここでは、民謡が息づいていると感じた。階段を上がって扉を開けると、二十人近くいた。小料理屋のようだった。
 同年代のママとおぼしき女性がピッチャーの泡盛を手に取って尋ねてきた。「あんた、ヤマトかい?」。店に何度か顔を出すようになると、地元の互助組織「模合(もあい)」に入るよう勧められた。見よう見まねで三線も覚えた。
 仲間たちと福祉施設に出かけては三線を奏で、福島の相馬地方で親しまれる民謡の新相馬節を歌ったりもした。時には、替え歌で原発事故の話題も盛り込んだ。
 島の生活は心地よかったが、南相馬の自宅には固定資産税を支払い続けなければならず、宮古島のアパートの家賃もかかる。きょうだいや子どもも「遠すぎる」と福島などへの帰還を促した。昨年七月二十四日、後ろ髪を引かれる思いで、約九年暮らした島を後にした。
 今は、亡くなった姉が住んでいた鹿嶋の一戸建てで生活する。海に近い約七百平方メートルの庭で、コマツナやホウレンソウ、シュンギクなどを作っている。新型コロナウイルス禍の往来自粛で、島を訪れてはいないが、時折、泡盛を飲んで三線をポロリと弾く。
 南相馬の自宅には今年二月も訪れた。庭は雑草で埋め尽くされ、帰る気はない。原発への抵抗感からだ。「今でも地元のキノコは出荷停止さ。放射能はふるさとを喪失させる。原発は絶対にいけないね」

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