300人以上に聞き取り「島に残る津波の記憶、後世に伝えたい」 気仙沼市大島出身の神奈川大大学院生

2021年3月6日 14時00分

島民に東日本大震災の体験を聞く小野寺佑紀さん(左)=宮城県気仙沼市で(小野寺さん提供)

 東日本大震災で33人が犠牲になった宮城県の離島の記憶を後世に伝えようと取り組む、島出身の神奈川大大学院生がいる。小野寺佑紀さん(30)。島民への聞き取りや資料の分析から見えてきたのは、明治や昭和の時代にも島民が津波に襲われてきた事実だった。「伝承を防災に役立てたい」と言葉に力を込める。(米田怜央)

◆20mの津波に襲われた古里

 宮城県気仙沼市の湾内にある大島は面積9平方キロメートル、2300人が暮らす東北最大級の有人島だ。10年前の震災時には津波が海抜20メートル近くまで駆け上り、一時南北に分断。市によると、760棟が損壊し、33人が犠牲になった。
 当時、仙台市に暮らす東北生活文化大の学生だった小野寺さんは、中学校の教師として古里に戻った2013年、「これだけの出来事。次世代が知ることができるようにしなければ」と、島の仮設住宅に暮らす島民から聞き取りを始めた。
 「何げない世間話をしていても、ふと津波の話になると皆険しい表情になった」。小野寺さんはそう振り返る。顔見知りの近所のおじさんが大声で泣くのを初めて見た。家族がまだ見つかっていない人がいた。

◆明治、昭和初期の教訓が平成に生きた事実も

 これまでに300人以上の島民を訪ねた小野寺さんは、1896(明治29)年や1933(昭和8)年に起きた津波の教訓が、東日本大震災の際に生かされた事実を知った。
 ある女性の体験はこうだった。東日本大震災発生直後、津波が海抜10メートルを超える自宅まで到達するとは思わなかった。しかし、明治時代に津波が同じ家の石垣まで到達したという言い伝えが頭をよぎり、高台へ逃げた。その後、女性の自宅は津波で流された。別の島民たちの話からは、内陸部にある「浜」や「磯」の字が入る屋号が、海のそばで暮らした人が高台に移転してきた名残だと分かった。
 聞き取りを続ける中、以前から三陸地方の漁村を調査してきた神奈川大の研究所が、震災直後から、津波で浸水した大島の漁業協同組合の資料の復旧に取り組んでいることを知った。中学教師を辞め、2016年に神奈川大の大学院に進学。海と共にあった島の歴史に、研究所が収集した資料からも迫ろうとしている。

◆いつか島民に見てもらい、防災に役立てたい

 大学のある横浜市に引っ越した後も時折、島を訪れ、聞き取りを続ける。「今になってやっと当時のことを話してくれる人もいる」。そうした話や津波の影響が残る島を歩くと「普通の生活をしている自分でも震災をふと思い出せる」と言う。
 自身も親族や同級生を失った小野寺さん。手にしてきた大量の記録は古里での講演や大学院の論文で発信してきたが、まだ道半ばだ。いつかは島に帰り、まとめた記録を島の人たちに見てもらいたいと考えている。「行政は防潮堤などハードをつくることばかりだが、身近にあるものこそが防災に役立つはず」。そう信じている。

◆小野寺さんが聞き取った島民の体験談(抜粋)

 ▼1928(昭和3)年生まれの男性 「1933(昭和8)年の津波は家の庭まで来た。周りの生け垣にがれきが引っ掛かって家は助かったが、ものすごいものだったと覚えていた。同じ家に暮らしていた東日本大震災の時は家族とともに高台へ逃げた」
 ▼1927(昭和2)年生まれの女性 「昭和8年の津波では、明治生まれの父から『津波が来るだろうから上の畑に逃げろ』と言われて避難した。対岸では3人が津波にさらわれた。その後に建て替えた実家は土台を5尺(1メートル50センチ)くらい上げたが、東日本大震災では流された」

関連キーワード

PR情報

社会の新着

記事一覧