東京大空襲76年 被災の実態、地図で迫る 墨田区の石橋学芸員、独自の地図を作成

2021年3月10日 07時15分

(右)学芸員の石橋さんが作成した地図(各地図はすみだ郷土文化資料館提供)

 一九四五年三月十日未明、墨田、江東区を中心に東京の下町で十万人以上が犠牲となった東京大空襲から七十六年。今も、被害の詳細は分かっていない。複数の「被災地図」を見比べ、実態に近づこうとする若き学芸員、惨状を目の当たりにした体験者、家族四人を失った戦災孤児−。あの日の記録と記憶に迫った。
 地域のどこまで焼失し、どこが焼け残ったのかを示したのが「被災地図」。戦後に複数発行されたが、大なり小なり「ズレ」がある。すみだ郷土文化資料館(墨田区)の石橋星志(せいし)学芸員(38)は、どれが正確なのかを検証し、独自の地図も作成した。

すみだ郷土文化資料館の石橋星志さん。背後は米陸軍作成の被災地図

 東京への空襲は約百回に及んだが、その被害は軍や国が把握し、戦時下で一般の人に知らされなかった。石橋さんは「報道も統制されていたため、真実は分からない」と話す。戦後、自由に地図が作れるようになり、疎開先から戻る人や商売をしたい人などのニーズもあったようで、国や都、民間から次々に被災地図が発行された。

「全国主要都市戦災概況図」の一部。言問橋東側にある「三囲社(現在の三囲神社)」一帯が焼けたことになっているが、実際は一部焼けたのみ

 終戦四カ月後の四五年十二月に、国の第一復員省(旧陸軍省)が発行したのが「全国主要都市戦災概況図」。復員する兵士や引き揚げ者らに地元の被害を知らせる目的だが、作成は各自治体任せだったため、地図の縮尺や大きさがまちまちで、「正確さには難がある」と石橋さん。資料館がある向島の辺りは「国の地図では焼けたことになっているが、実際には焼けていない」。
 また都は「東京都区部焼失区域図」を五三年に発行したが「いつ、どうやって調べたのか、根拠となった調査や資料が不明」という。
 より作成経緯が明確なのが、民間の日本地図株式会社の「戦災焼失区域表示 帝都近傍図」。終戦の三カ月後から、社員が歩いて現地調査して作成した。国や都の地図と比べると建物疎開で強制的に空間が作られた地帯が描かれており、「交通事情が良くなかった当時に現地に入って調査したリアルタイムの記録は貴重」という。

「東京都区部焼失区域図」。精度は高いが三囲神社が一部焼けたことが反映されていない

 これまで最も精度が高いとされてきた米軍の地図も検証した。戦前の地図を基に、航空写真を反映して作られたものだ。一定の精度はあるが、資料館北側の三囲(みめぐり)神社は一部が焼けたのに地図に反映されていないなど、完璧ではなかった。
 石橋さんは、体験者の証言や米軍の地図、民間の地図、航空写真などを組み合わせて、最終的に独自の被災地図を作成した。「当事者や遺族が高齢化する中で、見えにくくなっていく戦争被害を少しでも正確に把握して継承するため、事実関係をはっきりさせる必要がある。被災地図の精度をより高めていきたい」と、力を込めた。

1945年4月2日撮影の「米国公文書館所蔵米軍撮影空中写真」。白い部分が焼失地域(一般財団法人日本地図センター提供)

 独自作成も含むさまざまな被災地図は、5月9日まですみだ郷土文化資料館で開催中の企画展「東京大空襲−被害の詳細と痕跡−」で展示されている。午前9時〜午後5時。月曜、第4火曜休館(5月3日は開館、同6日は休館)。入館料100円、中学生以下無料。問い合わせは同館=電03(5619)7034=へ。

<あの日の記憶>

◆今も目に焼き付く炎 植木成さん(89)

 当時の地図を見ながら体験を語る植木さん

 ヒュルヒュル−。真っ暗な空から無数のきつね火のような焼夷(しょうい)弾が降り、火の手が近所まで迫ってきた。三月十日未明、当時十三歳で、本郷区菊坂町(現在の文京区本郷)に住んでいた植木成(しげる)さん(89)は、逃げ場を求め「東大へ行こう」と、菊坂から急坂を上り東大正門から構内に入った。安田講堂の脇から高台のグラウンドに上ると、「こりゃ、ひでぇや!」。眼下に下町の惨状が広がっていた。
 上野から浅草方面は、メラメラと燃え上がる真っ赤な炎と激しい爆音、赤黒い煙の中にちらりちらりとサーチライトが光っていた。「恐怖と孤独感で足が動かなかった」
 翌朝、親類を捜しに浅草方面に向かうと、浅草寺も仲見世もすっかり焼け落ち、隅田川では流れつく遺体を人々が竹の棒で押しやって流していた。一面の焼け野原にメラメラと陽炎(かげろう)が燃え立ち、「生きた人間が入るのが躊躇(ちゅうちょ)されるような異様な光景だった」。今も目に焼き付いている。
 戦後の食糧難を乗り越え、無我夢中で生きた。「長生きして、やっと解放された。平和であれば人生は素晴らしいと、孫たちに伝えたい」

◆一夜で孤児になった 大塚裕司さん(86)

 体験を俳句に詠む大塚さん

 「三月十日は両親と弟、妹の命日」。江戸川区南小岩の大塚裕司さん(86)は、東京大空襲で家族を失い、戦災孤児になった。
 江東区森下で生まれ育った大塚さんは、新潟県燕市に縁故疎開していた十歳のとき、東京にいた家族が空襲で亡くなったと知り「全く信じられなかった」。空襲の直前、新潟まで会いに来てくれた母親を「あと数日引き留めておけば」と悔やんだ。
 一緒に疎開していた二歳下の妹と、燕市の伯父宅で暮らしたが「いつまでも世話になっていられない」と、中学を出ると上京。親がないことで就職に困り、「手に職を」と、父と同じ瓦職人になった。戦後の復興期を夢中で走り抜け、七十歳まで現場で働いた。
 今も遺骨が見つからない両親たちを思い、東京都慰霊堂(墨田区)には毎年三月十日に欠かさずお参りしている。八十四歳の妹も健在で「こんなに長生きできるのは両親に見守られているからかもしれないね」と、時折二人で亡き家族を思う。
 疎開先で手ほどきを受けた俳句を、今も心の糧として詠み続けている。
 「孤児の過去 八十六の春迎ふ」
 本紙が過去に取材した元戦争孤児らの証言動画をご覧いただけます
 文・長竹祐子/写真・嶋邦夫、長竹祐子
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