震災10年 福島の3月11日 地震、津波、そして原発事故
2021年3月11日 22時37分
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から、3月11日で10年となりました。2011年から10回目の3月11日、被災地ではそれぞれに1日の生活を送っている人たちがいます。福島第一原発の事故収束作業をする人、復興住宅でのんびりと過ごす人、共同墓地で亡き人を思い祈る人。あの日に命が途絶えた人たちがいる中、あの日から暮らしを続けている人たち。原発事故の被災地にいる記者が、その様子を伝えます。(取材・片山夏子、小野沢健太、福岡範行、神谷円香。まとめ・小川慎一)
◆午前8時 大熊町・東電社員寮
ピチュピチュという小鳥の声が響いた福島県大熊町大川原地区。東京電力の社員寮前で、紺色の制服を着た人たちがバスに乗り込んだ。運転手が明るい声で「おはようございます」と一人一人に声をかけた。バスはすぐに、事故収束作業が続く福島第一原発に向かった。
◆午前8時55分 大熊町・町役場近く
大熊町役場近くに新設した街灯を電気設備業者に勤める武井達哉さん(34)=福島県いわき市=が掃除していた。震災翌年には、町内で除染作業用の電気工事も担い、「誰もいない死んだ町」の姿も見てきた。街灯は太陽光発電パネルや風車が付いた自立式。「街灯は少ないし、建物の光もまだ少ないけど、明るくなったかなって」と笑った。
◆午前9時 富岡町・東電廃炉資料館
福島県富岡町の東京電力廃炉資料館前には「閉館中」の看板が掲げられ、人影はなかった。入り口の自動ドアは開き、下請け企業の男性従業員が「新型コロナウイルスの感染防止のために閉館しています」。見学者に閉館理由を説明するために入り口を開けているといい、「廃炉はまだ道半ば。今後も事故の反省を伝え続けたい」。
◆午前9時 南相馬市・JR鹿島駅
無人駅だが、市の委託で平日の日中は駅で案内役をするNPO法人相馬救援隊のスタッフ柳原正一さん(67)は「今日も朝7時台に高校生が通学していった。無人だと夕方などは怖いからということで続けています」。登校する生徒を見送った後の駅は静かだった。
◆午前9時30分 大熊町・大川原地区
大熊町大川原の災害公営住宅に暮らす高齢男性4人が、縁側に腰掛けて「きょうは何すっべ」と談笑していた。すぐ近くの宿泊温浴施設の建設現場からはトントントンと工事の音が聞こえる。一足早く建った商業施設は今春開業する。ただ、施設建設は一年遅れ。男性たちは「店があるって聞いてきたのに、延期だもん。東電と同じだあ」とぼやきつつ、「これで、ちょっとは便利になるな」と期待も口にした。
◆午前9時55分 南相馬市鹿島区・八坂神社前
神社のすぐ横に住む農業菅野信彦さん(66)は「今日も変わらない日々。普通に畑仕事してる」。東日本大震災の津波は家のすぐ手前まで押し寄せた。忘れないようにと、自腹で神社入り口に「伝えつなぐ大津波」と記した石碑を建立したという。
◆午前9時55分 浪江町・大平山霊園
津波で亡くなった妻の墓参りに来た浪江町東日本大震災遺族会の柴野正男副会長(62)は、津波で家も失った。「亡くなった人に対しての気持ちや寂しさは、何十年も続く。区切りなんてない。原発事故も収束していない。今は郡山に住んでいる。こっちに住みたいけど、孫は来させたくないな」と複雑な気持ちを吐露した。
◆午前10時30分 富岡町・夜ノ森
桜の名所として知られ、今もほとんどが帰還困難区域の富岡町夜ノ森地区。住宅地は鉄柵で囲われ、人通りはない。柵のはるか向こうで重機の音だけが響く。沿道の桜はつぼみがふくらんでいたが、住宅は屋根は崩れ、雑草に埋もれている。ここには暮らしがない。
荒れ地の写真を撮っていた富岡町の男性職員(58)は「ここは畑だったけど、持ち主は避難したまま。雑草が茂ってイノシシがよく出るという苦情があったので、写真に撮って持ち主に知らせるんです」。ただ、現地に来て対処する人はほとんどいないという。「この地区に住んでいるのは建設会社の作業員が多く、住民は放射能を気にしてあまり戻ってこない。この先、町の運営がどうなるのか見通せない」と声を落とした。
◆午前10時40分 南相馬市鹿島区・山田神社
神社の元の建物は津波で流され、日本財団などの支援で2016年に再建された。普段は人はいないが、震災から10年のこの日は神主の森いづみさんが社務所に控えていた。氏子の一人松村浩安さん(68)も「今日は誰か来るだろうと思って」、お参りにきた。「ここは海抜8メートルだが、14メートルの津波が来た。氏子は43人が亡くなった」。一帯の畑は区画整理中で、この春から全面的に作付けができるという。「当初の計画では2年前に終わる予定だったけど。今日は、ああ10年たったかな、というくらい」
◆午前10時50分 浪江町・大平山霊園
津波で父親が亡くなった郡山市の女性が男性と2人で、きれいに掃除して花をいける。「節目なんてない。意味がわからない。けじめをつけるなんて、ありえない。忘れちゃいけない。踏ん切っちゃ駄目。そうでしょう。たくさんご遺体がまだ見つからず、その上を歩いているんですよ。聞いている意味がわからない。ごめんね」
◆午前11時10分 南相馬市鹿島区 かしまの一本松跡地
沿岸の松林で唯一残ったものの枯れてしまった「かしまの一本松」跡地。今は新たな防災林のための植樹が進んでいる。海側では、盛り土工事のトラックが行き交っていた。辺りに人影はほとんどない
◆午前11時30分 大熊町・町役場前
大熊町役場前で式典の準備が進む。「ものの復興より心の復興」というメッセージボードが置かれていた。
◆午前11時45分 南相馬市原町区・萱浜
萱浜地区では、慰霊碑には真新しい花が供えられ、線香はまだ燃えて香っていた。近くの住宅跡とみられる場所にも、花と飲み物が供えられていた。
◆午後0時 浪江町・大平山霊園
両親と妹、妹の8カ月と4歳の息子ら家族や親戚10人を津波で失った冨永亜希子さん(53)は、喪服に身を包み、叔父や叔母たちと一緒に色とりどりの花や作りたての餠を丁寧に備えた。ポケットからピンクの携帯を大切そうに取り出す。「母の声が入っていて。私が仕事が遅いから心配してよくかけてきた。今も仕事の後に駐車場で聞いてしまうんです。だから携帯を変えられなくて」。そっと記者の耳に携帯を当ててくれる。「何でもないけど、ちょっとね」。小さな声が聞こえてくる。「町の慰霊祭で話してと言われたことがあったけど断った。ひと言でも言葉にしたら涙が出て話せないから」。母、妹ら3人はまだ見つかっていない。
◆午後0時30分 富岡町・中心部
災害公営住宅「曲田第一団地」内の公園では、穏やかな日差しの中で鳥の鳴き声が響いていたが、人通りはなかった。団地内で乗用車を洗っていた大和田信成さん(64)は「事故前の自宅は夜ノ森地区で、今も帰還困難区域。さら地にしたけど、避難指示が解除されたら同じ場所に家を建て直して戻りたい」。3年ほど前に町内には帰還したが、まだ気持ちが落ち着かない日々が続くという。
◆午後0時30分 浪江町・海岸
浪江町の海岸で津波被害者の遺体捜索を終えた消防隊員が一列に並んで黙とう。浪江消防署の鈴木達也副署長(49)は「原発事故があったので周辺は初めて捜索ができたのが1カ月後だった。行方不明者の家族の思いを考えると。警察も消防も最後の一人が見つかるまで今後も捜索していく」と語った。この日の捜索では七つの骨らしきものが発見された。「1人でも見つかるといいが」
◆午後0時50分 南相馬市小高区・小高交流センター
生鮮品を販売する「小高マルシェ」。毎週木曜日に店番をしている同区の安部あきこさん(74)は「10年はあっという間。こんなに早いのかという感じ」と話した。沿岸部の高台にある自宅は地震や津波の被害はなかったが、東京電力福島第一原発事故による避難指示で5年間は住めなかった。戻った今は野菜作りをしながら、震災の語り部としても活動する。「今日は、マルシェは2時までなので終わったら帰る。明日出す品物の準備もあるし」。地震のあった時間に特別何かをするつもりはない。
◆午後1時 大熊町・大野駅周辺
大熊町のJR常磐線・大野駅のホームには、あちこちの現場で動く重機の「ガタンガタン」という音が響いていた。駅は1年前に再開したが、喫茶店やガソリンスタンドが並ぶ駅前の商店街は、まだ帰還困難区域のゲートの向こう。屋根や窓が壊れたままの建物が目立ち、解体除染が進む。
午後1時5分、5両編成の原ノ町行き下り普通列車が着き、乗客が2人だけ降りた。
◆午後1時50分 双葉町・中間貯蔵施設ゲート前
双葉町役場そばの中間貯蔵施設のゲート。汚染土を運ぶトラックは休みでいなかった。ただ、関係者の車の出入りはあり、ゲートに立つ男性警備員(60)は「通行証を見て、身分証を見て、通す。いつもと変わらないですね」と語った。勤務は午前6時~午後5時。午前は日差しが暖かかったが、午後は風が出て冷えてきたといい、「ジャンパーを着ました」。
◆午後2時25分 大熊町・町役場
町民らの「復興のつどい」に来た横田トメ子さん(93)は、「早く我が家に帰りたい」と書いた折り鶴を手に「家に帰りたいねぇ」と何度も話した。自宅は原発から4キロ。帰れる見通しはない。「10年も家に帰れないなんて。他何にもいらない。ただただ帰りたい」
◆午後2時35分 双葉町・追悼式典会場
避難指示が一部で解除された双葉町では、原発事故から10年がたった今回、初めて町内での追悼式が営まれた。会場は新しくできた町産業交流センター。
◆午後2時46分 10年前の3月11日に地震が発生した時刻
双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館そばの芝生広場に「1分間の黙とうをささげます」と町の防災無線の声が響いた。周囲には、津波に遭った建物やがれきが残っていた。
小学6年で被災した南相馬市小高区出身の東京家政大4年の門馬千乃さん(22)は、会津若松市に避難中に知り合った友人と2人で静かに手を合わせた。「震災について忘れていることもあると思うから、いろんな人に伝えたいな」と考えながら。
東京で就職するが、いずれは福島の復興に携わることを夢見ている。例えば、レストラン。「福島のおいしいものを伝えたい。生のりの天ぷらとか、ねちょっとするけど、天つゆが染みるんです」と笑った。
◆午後3時 大熊町・町役場
「復興のつどい」では、政府の慰霊祭の様子が音声で流れた。菅義偉首相の「復興の総仕上げに全力」という言葉に、社会福祉法人「おおくま福寿会」の石田仁理事長が顔をしかめる。「復興の総仕上げって。すごい違和感。大熊は復旧もできていないし、住民も帰れていない。10年たって今日初めて大熊町で住民が集えた。中間貯蔵施設ができ、除染だって終わっていない」と憤った。
◆午後3時10分 双葉町・追悼式典会場
双葉町産業交流センターで開かれた東日本大震災双葉町追悼式で、伊沢史朗町長は「震災発生から10年。ようやく帰還に向けてスタートを切ることができました」と式辞を述べた。
現在、町内に住む人はゼロ。町は2022年春、JR双葉駅周辺の避難指示解除と町民の居住開始を目指している。伊沢町長は「双葉町への帰還を実現することを誓います」と語った。
◆午後4時 双葉町・伝承館
双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館そばに並んだキャンドルを中国出身のデザイナー杜韓さん(34)=東京都板橋区=が撮影していた。自分の誕生日に有給休暇を取り、初めて双葉町に訪れた。9年前に来日。「テレビで見た津波は怖かった。プロモーションを研究しているので、日本の魅力を中国に伝えたい」
◆午後4時15分 双葉町・産業交流センター前
センター前の道路に、双葉の色をイメージした黄緑ののぼり旗が並んだ。夕方の追悼花火の警備を担当する地元業者の団体「双葉町ふるさと復興事業協同組合」の旗だ。メンバーは「こういうときでないとPRできねえっから」と笑い合う。勝山広幸理事長(52)は「双葉はまだ先が見えない。インフラでもなんでも地元業者が先頭に立ってやんねえと」。
◆午後4時40分 双葉町・アスファルト工場
工場の壁に、綱を引く老若男女の手が描かれていた。JR双葉駅前の建物の壁画も描く東京都世田谷区の壁画アートの会社「OVER ALLs」などによる新作。みんなで未来を引っ張る姿をイメージした。赤沢岳人社長(39)は「壁画を増やして、集まる人も増えて、集まった人が町にできることを考えてくれればいいな」と思い描く。完成は12日。
◆午後5時 南相馬市小高区・ブックカフェ「フルハウス」
芥川賞作家の柳美里さんの自宅に併設した店は、1日じゅう普段より混雑していた。副店長の村上朝晴さん(37)は「目が回りそうに忙しかったです。震災の日っていうので来た人もやっぱりいました。地元の人も来ましたし」。柳さんは不在で、この日は「静かに過ごす日」と言っていたという。
◆午後5時50分 双葉町・中間貯蔵施設前
福島第一原発周辺に広がる「中間貯蔵施設」。福島県各地から搬入された汚染土が入った土のう袋(フレコンバッグ)のそばで作業する重機が見える。手前の帰還困難区域の境界には空間放射線量が表示されていた。
◆午後6時 楢葉町・天神岬スポーツ公園
広大なキャンプ場の中に1組だけたき火をしている人がいた。埼玉県本庄市の堀江隆広さん(56)は、避難指示解除後の2017年から毎年、3月11日にこのキャンプ場を訪れ、海に向かって黙とうしている。「福島第一原発から一番近いキャンプ場なんです。あれだけ大きな被害を出し、今も影響が続いている。福島県外の人たちも、決して忘れちゃいけない」。これからも毎年、この日にこの場所に戻ってくるつもりだ。
◆午後6時30分 双葉町・双葉駅
東日本大震災・原子力災害伝承館で打ち上げられた追悼花火のドーンドーンという音が駅に届いた。改札前のベンチには、東京都小平市の武蔵野美大1年新井隼人さん(19)が一人、座っていた。双葉町に来たのは初めて。昼すぎから町を歩き回り、倒壊したままの建物や伝承館で被害の様子を目の当たりにした。「ここの人たちにとっては、元いた町はないのかな。簡単に共感した気になっちゃいけないと思った」
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