浪江から避難したすし店主 東京で支えられ再出発 被災者に温かい眼差し

2021年3月13日 06時00分
 東日本大震災後、東京都江東区にある36階建ての国家公務員宿舎「東雲住宅」では、東京電力福島第一原発事故で避難を強いられた被災者が最大約1300人暮らした。慣れない地の生活を支えたのは、住民同士のつながり。それを担った1人、福島県浪江町出身のすし店主藤田泰夫さん(68)は東京五輪が終わったころには、故郷に軸足を移しながら、東雲と行き来する生活を送りたいと考えている。(奥野斐)

店内に飾られた大漁旗の前で話す藤田泰夫さん=今年1月東京都江東区で(由木直子撮影)

「写真や食器が落ちて、もうぐちゃぐちゃよ」。2月13日に福島・宮城両県で震度6強を観測した地震後の2月末、東京都江東区に住む藤田泰夫さん(68)は福島県浪江町に帰省した。昨年10月以来だった。

◆コロナで帰省の機会減り

 「墓を守らなきゃ」と一昨年秋に家をリフォームした。だが新型コロナウイルスの影響で、帰省して換気する機会が減り、昨秋戻った時はあちこちカビだらけ。そこに追い打ちをかける地震。「困っちゃうよな」と肩を落とす。
 浪江町で生まれ、26歳ですし店「三好寿司」を構えた。福島第一原発まで10キロ弱、客に東京電力関係者も多かった。2011年3月11日、店を始めてから30年あまりたっていた。「大震災の翌々日に、踊りの発表会で300人分のお弁当の注文が入っていたんだ。卵焼きの準備をしていて、そのままよ。ヒヨコにはなってなかったけどな」。冗談交じりに振り返る。
 店は修業から戻った息子2人と切り盛りしていた。原発事故による避難指示が出て、息子家族を含む7人で避難。栃木や千葉の親族などを頼ること1カ月、ようやく江東区の東雲住宅に落ち着いた。

◆「東雲の会」の代表に

東雲住宅での交流組織発足へ向け話し合う藤田泰夫さん(左)と福島県からの避難者ら=2011年9月2日、東京都江東区東雲で

 着の身着のままの被災者らを東雲の人たちは助けた。「好きな物を持って行ってください、って、下着や食器を出して、良くしてくれたんだ」。11年9月、被災者間の交流のため「東雲の会」ができ、藤田さんは代表になった。
 交流会を催し、被災者が孤立しないよう見守りをした。近くでイベントがある時は「なみえ焼そば」を作って売った。毎年、追悼式典も開いた。「みんなで支え合って、やってきたんだよ」
 福島で元のように暮らす見通しが立たない中、藤田さんは14年12月、東雲にすし店「お魚ダイニング三好」を開いた。60席ほどの店は、近隣のタワーマンションから若い家族連れが訪れる。一緒に働く長男(42)と次男(39)も都内に家を構え、長女(37)、孫を含めた家族10人が東京で暮らす。浪江町の店は解体した。「涙、涙だったけども」
 浪江町は17年春に避難指示が一部解除された。東雲から故郷に戻る人、他の地に移る人が増え、東雲の会も19年3月に解散した。

◆「家族で店やれているのは幸せ」

 「年も取ったし」と、藤田さんは東京五輪後、平日は浪江町で暮らして店は息子たちに任せ、週末だけ東京に来て、手伝おうと考えている。
 コロナ禍で、店は時短営業を余儀なくされ、弁当販売も始めた。3月11日は、地震の起きた午後2時46分に黙とうした以外は、通常通り営業した。
 10年がたち、1歳だった孫は小学5年生に、孫は2人増えた。藤田さんは、自らに言い聞かすように語る。「大変だけど、家族皆で店をやれているのは一番の幸せなんだよな」

東雲住宅 東京都江東区にある36階建て高層マンション型の国家公務員宿舎。東日本大震災後、都が財務省から無償使用の許可を得て避難者を受け入れた。避難指示区域外からの避難者も多かった。区によると、1月時点で福島、宮城、岩手3県の70世帯108人が避難を続けている。


 

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