心に自分だけの場所を 『空芯手帳』 作家・八木詠美(えみ)さん(32)

2021年3月14日 07時00分
 上司に片付けを命じられたコーヒーカップには吸い殻が突っ込まれ、異臭を放っていた。とっさに口をついて出たのはこんな嘘(うそ)だった。「今妊娠していて。コーヒーのにおい、すごくつわりにくるんです」
 主人公は三十四歳の独身女性、柴田。新卒で入った会社を生理が止まるほどの過重労働とセクハラで辞め、今は小さな紙管製造会社で働く。ここでも「地味でおとなしい」となめられ、女というだけでお茶出しなどの「名もない仕事」を押しつけられる。だが、その日々は一変。柴田はどう妊娠を偽装するのか、途中でばれないのか−。手に汗握って読むことになる。
 「よくこんな嘘つきますよね。子どもが生まれなきゃいけないのに」と、作者の八木詠美さんはほほ笑む。ふだんは会社員で、仕事後に図書館に寄ってこつこつ書いたのがこの作品。太宰治賞を昨年獲得し、デビューした。新人ながら各国からオファーが寄せられ、英・米・独・仏・伊などの欧米各国やアジアの国々で翻訳出版が決まった。
 主人公はニセ妊婦を演じるうちに、妊婦仲間ができる。出産後に孤独な育児に苦しむその中の一人に「自分だけの場所を、嘘でもいいから持っておくの」と勧める。嘘を胸の中で唱え続けたら、別世界に行ける。その間に自分や世界が少し変わるかもしれない。大事なのは誰にも侵害されない場所を心に持つこと。そうすれば日々を生き延びられる−。
 八木さんにとっては執筆活動が「別世界」。偽装妊娠と同じく「執筆中は、小説という子どもを妊娠している気持ちだった」。
 破天荒な設定を思いついたきっかけは、八木さん自身が結婚後、「少子化だから子どもは三人産まなきゃね」と親類に言われた言葉だという。中高を女子校でのびのび過ごし、大学で初めて女性差別があることに驚いた。同世代の女友達は出産後、夫への「お伺い」なしには外出できなくなった。そんな実体験も反映されている。
 「社会や組織で若い女性は声が上げづらく、主張がないと思われがち。でもそうじゃない。自分もすぐ言い返せないタイプですが、ささやかな抵抗をするために小説を書いているのかもしれません」。とはいえ、作風は飄々(ひょうひょう)として、人を食ったような主人公の言動に引き込まれる。だまされる快感をどうぞ。
 筑摩書房・一五四〇円。 (出田阿生)

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