ヘーゼルの密書 上田早夕里(さゆり)著

2021年3月14日 07時00分

◆日中和平工作の秘史
[評]細谷正充(文芸評論家)

 直木賞候補になった『破滅の王』をはじめ、ここ数年、近代史を扱った作品を発表している上田早夕里が、新たな長編を上梓(じょうし)した。題材は、一九三九年末から翌年にかけて実行され、“桐工作”と名付けられた日中和平工作だ。
 一九三九年の上海。語学学校の教師の倉地スミは、今井武夫陸軍大佐の指揮する、桐工作を支援する和平工作ルート「榛(はしばみ)」の一員になった。仲間には料理人兼ボディーガードの新居周治、生物学者の森塚啓、邦明通信社の双見健太郎、中国人の費春玲(フェイチュンリン)がいる。また、スミの夫で貿易商の毅も、別の和平工作にかかわっているようだ。
 かつてスミは、小野寺信陸軍中佐が指揮した日中和平工作にも協力していた。残念なことにそちらは頓挫したが、新たな工作に意欲を燃やす。現場責任者の書記官・黒月敬次の下で、〓介石につながる協力者を探す「榛」のメンバーは、それぞれの想(おも)いを抱えて、行動するのだった。
 桐工作は史実だが、「榛」は作者の創作である。史実を押し広げた場所に「榛」のメンバーを投げ入れ、和平工作に奔走する人々の姿を描く。作者は、幾つもの興味深い史実を織り込みながら、波乱の話を進めている。ここが本書の読みどころだろう。
 とはいえ、血湧き肉躍るような冒険は、物語の中にはない。アクション場面も点在するが、抑えた筆致で表現されているのだ。主人公のスミもスーパーウーマンではなく、日中双方から狙われる危険に怯(おび)えながら、あくまでも通訳として働くのである。
 日中の対立が激化し、混沌(こんとん)と暴力の渦巻く時代。多くの組織と人間の思惑が交差する中で、スミの果たす役割は小さい。だが、それでも強い存在感を放っている。なぜなら、スミの根源に“自由”を求める魂があるからだ。
 そして自由を求めるからこそ、平和を求めずにはいられない。だからすべてが終わった後のスミの決意に心が震える。歴史とフィクションを見事に融合させた近代秘史。じっくりと読む価値のある作品なのだ。
(光文社・1980円)
1964年生まれ。作家。著書『火星ダーク・バラード』『華竜の宮』『破滅の王』など。

◆もう1冊

今井武夫著、高橋久志ら監修『日中和平工作 回想と証言1937−1947』(みすず書房)。桐工作にも関わった軍人の書。
※〓は草かんむりの下に將

関連キーワード

PR情報