「あなたの復興の節目はいつですか?」あの日から10年 福島で聞いた

2021年3月17日 06時00分
あの日から10年が過ぎた。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故で被災した福島県の人たちは、何かの区切りを迎えたのだろうか。取材班は現地で出会った人に「あなたの復興の節目はいつですか」と尋ねた。避難指示解除を節目と言う人、自宅で寝られる日を願う人、「考えられない」と怒る人―。復興へ、それぞれの歩みがある。(福岡範行、片山夏子、小野沢健太、神谷円香)

東日本大震災から10年、地震発生時刻に2011羽の折り鶴の前で黙とうする人たち=2021年3月11日午後2時46分、福島県大熊町で

◆南相馬市

南部の小高区の避難指示が2016年に解除。山間部に帰還困難区域が残る。
佐藤愛華さん(23歳)、アルバイト、原町区在住(小高区出身)

佐藤愛華さん

日常で震災という言葉も出る、普段から感じる。常に一緒に生きていくし、まちも常に変化していく、10年でぽん、じゃない。忘れるわけじゃなく。自分も大人になって変わったというより、子どもの時に避難生活をして、震災の影響を受けながら成長してきた。思い出せばつらいこともあるし、震災がきっかけでつながった縁もある。節目っていうのは、これからもないと思います。
菅野信彦さん(66歳)、農業、鹿島区在住

菅野信彦さん

自宅のすぐ前まで津波が来た。横にある八坂神社入り口に、震災の見舞金を使って自腹で「伝えつなぐ大津波」と記した石碑を建てた。隣には神社の氏子たちで建立した「おらほの碑」がある。節目?特に変わらない日々。この前の地震(2月13日夜)できたんじゃない、みんな思い出してさ。
荒佳幸さん(42歳)、タクシー会社専務、鹿島区在住

荒佳幸さん

節目、あるんですか?と聞きたい。汚染水の問題にしても、区切りができていないから節目にならない。もう10年なんだ、と。国が区切りをつけてほしい。あと5年、10年でどう変わる?もとには戻らない。タクシー会社は身内の会社で、跡継ぎがいないからと頼まれて1年以上考え4年前に転職した。昨年12月20日から3月11日まで休んでいないですよ。コロナで出張も減り、頑張っても前年比1割は減る。タクシー業界は大変。人手も足りない。今の仕事、充実はしていないです。3月12日はやっと娘の卒業式で、会社に行かないかな。
安部あきこさん(74)、生鮮食品販売の小高マルシェ会長、小高区

安部あきこさん

節目、はないね。10年だからうんぬんじゃない。今後もおそらくない。今のままの生活で。こんなに10年は早いのかという感じ。小高区浦尻の家は高台にあり、津波被害もなく地震でもコップ一つ割れなかった。2月の地震でもそうだった。避難指示で、初めは相馬市の息子が婿養子に入った家にいたが、いづらくなり鹿島区の仮設住宅へ。震災は語り継ぐしかない。10年は一区切りかとも思いながら、またどうなるかは分からない。
堀耕平さん(61)、南相馬市博物館館長、鹿島区

堀耕平さん

復興、というか取り戻すのを、がむしゃらに前を向いてやってきた。当時のことを思うと、記憶が薄れがちになるのはあると思う。今後のことを考えるうえで、立ち止まって考えることはあってもいいと思う。10年で節目、というのは感じないが、例えば市の施設がいつ完成するかとか、目標設定をして見直すのは仕事上あるので、そのきっかけとして10年の区切りはあるかと思う。公務員はそういう訓練をされてきたので。10年というよりは、原発事故で南相馬市の避難区域が解除されたのは区切りとして大きい。ハード面で国や県、行政の目標はこれまであった。どこかで目標を決めて区切るのは必要。
早川秀明さん(74)、小高工房スタッフ、小高区

早川秀明さん

小高区の避難指示が解除になった時がひとつ節目かな。ずっと準備宿泊はしていた。それまでは鹿島区の仮設住宅で、入るまでは7回くらいあちこち引っ越しましたよ。小高区の家は建てたばかりで、震災でも無事だった。でも避難しなきゃいけなかった。
柳原正一さん(67)、NPO法人相馬救援隊スタッフ、原町区在住(小高区出身)
会社勤めをしながら兼業農家で休みに田畑を耕していた生活は180度変わった。大変でした。10年前とは全く違う生活になり、元には戻れない。これはこれで前向きにやっている。節目というなら、原町区に家を再建した2017年。16年に小高区の避難指示が解除になり借家暮らしをしたが、小高区にこだわるのはやめよう、と話した。
松村浩安さん(68)、嘱託職員、相馬市蒲庭在住

松村浩安さん

(南相馬市との境近くにある自宅が津波被災)節目といわれても何の節目なのか。まだ復興も終わっていない。10年で終わるわけじゃない。ああ10年たったのかな、というくらい。区画整理が終わったら、この春から田んぼは全面的に作付けができる。節目といえば節目。当初の計画では2年前に終わる予定だったけど。ブルドーザーがなくなればいいのかな、ダンプカーもまだ多少走っているので、全部なくなったらいいのかな。
門馬千乃(ゆきの)さん(22)、大学生、小高区出身

友人とともに海に向かって手を合わせる門馬千乃さん(手前)

若い人たちが戻ること。地元に帰ってくると、人がいないのがさみしい。まだ暮らしにくくて。おばあちゃん、おじいちゃんたちはいるけれど。自分も、いずれは福島で復興に携わりたい。
板倉成子さん(52)、公務員、3月11日に両親の墓参り
自分の中で10年が節目かなと思って、今日は仕事を休んできた。何も変わらないけど。いとこは、まだ見つかっていない。両親も地元にいれば落ち着くかなと思って。穏やかに安らかに眠ってほしい。

◆浪江町

中心部と海側の避難指示は2017年に解除。居住者はなかなか増えず、特に10代以下が少ない。
柴野正男さん(62)、郡山市在住、浪江町東日本大震災遺族会の副会長、津波で妻を亡くした

津波で避難中に亡くなった妻の墓参りに来た浪江町東日本大震災遺族会・副会長の柴野正男さん(右)=浪江町の大平山霊園

あっという間に10年がたった。がれきはずいぶん片付いたが、亡くなった人に対しての気持ちや寂しさは、何十年も続く。区切りなんてない。原発事故も収束していない。田んぼもあるし、こっちに住みたいけど、孫は来させたくないな。
女性、郡山市在住、津波で父親を亡くした
節目なんてない。けじめをつけるなんて、あり得ない。忘れちゃいけない、踏ん切っちゃ駄目。そうでしょう。たくさんご遺体がまだ見つかっていない。この辺の地面にもご遺骨がまじっていて、その上を歩いているかもしれないんですよ。意味が分からない。
吉田信一さん(40)、町職員、沿岸部で遺体捜索

沿岸部で行方不明者を捜索する警察官と消防隊員ら。後方は東京電力福島第一原発=浪江町で

まだ多くの人が行方不明のまま。周りはもう10年たったと言うけれど、原発事故で避難が続いている自分たち当事者にとっては、前の状態に戻れるわけじゃないし、厳しい状態が続いている。遺体の捜索は続ける。
佐藤康子さん(63)、いわき市、義父(81)が津波で亡くなった
10年だからね。ある程度区切りをつけようと思うけれど、区切りなんてつかない。いわきに家を建て3年たつけど、家はあるけど自分の家じゃない気がする。家族は一緒だけど、でも故郷じゃない。瓦礫は無くなったけど、すっかり風景も変わっちゃって。
男性(74)、姉夫婦や姉の娘夫婦を津波で亡くした
月に1、2回墓参りに来る。10年っていうけど関係ない。(福島第一原発の)廃炉は無理だと思っている。事故後、この周辺は放射線量がものすごく高かった。原発事故の影響は生きている間はずっと続く。我々に節目なんてない。震災だけだった地域は復興に向かっているけど、ここは原発事故があった。避難先に住んでいるけど、コミニュケーションなんて全然ないよ。
女性(73)、兄夫婦やめいら親族10人を津波で亡くした

津波で亡くなった家族の眠る墓に手を合わせる女性ら=浪江町の大平山霊園

すぐ助けに行けていたら。助かっていたかもしれないと思うとやるせない。10年たっても寂しい。政府は慰霊祭をやめるというのはしょうがない。でもそれぞれ供養をし続ける。一生手を合わせ続ける。

◆双葉町

福島第一原発が立地。JR常磐線双葉駅が2020年に再開したが、まだ誰も住めない。町民の居住開始は22年春の予定。
吉田信彦さん(40)、双葉町と富岡町でガソリンスタンド運営
節目はない。自分の子どもが亡くなったら、10年たっても払拭されない。2000人以上、見つかっていなくて、捜している人がいる。国は10年を区切りにしたいのかなと思うし、復興への予算の動きが悪くなっていると感じる。避難指示が解除されて、住民が戻ってきても何にもない。病院、インフラ、学校といった環境を整えないと。10年は節目というより、通過点。
勝山広幸さん(52)、土木建設業、双葉町出身
節目は、完全に元に戻すのと、原発の収束。30年かかって廃炉できるかも定かじゃない。それじゃあ、人は戻んねえよ。除染した汚染土の中間貯蔵施設も、一時保管だっていう約束は果たせるのか。うやむやになりかねないと思っている。
武内裕美さん(67)、元双葉町職員、いわき市在住

資料を元に福島第一原発事故当時を振り返る武内裕美さん

子どもたちの声が聞こえるような町になった時。学校がきちっと整って、子どもたちの声が聞こえる状況。将来を担う人たちがいないと町にはなり得ない。高齢者だけなら廃れる。歴史をつないでくれる子どもたちの声がないと。高齢者が戻るにも医療機関がいるし、働く場所もないと子どもを持っている世代が戻らない。総合的にそろってこないと町として成り立たない。
泉田邦彦さん(31)、宮城県石巻市職員、地域史継承に取り組む、双葉町出身
自分が死ぬまでこないだろうと考えています。いくら活動しても常に課題はたくさんあり、これで終わりだと思えることはおそらくないのかなと。歴史・文化継承の取り組みは、原発事故で崩壊してしまった地域コミュニティに対して自分にできることだという思いがありましたが、10年経ってほとんどの住民の生活基盤は町から離れてしまいました。
男性(50代)、バス運転手、飯舘村在住
飯舘村に戻ったときが節目です。生活の基盤が戻りました。今、働いている双葉町はまだ人が住めていないですけど、人が住めるようになったら、また変わると思います。
男性(40代)、双葉町職員
8年前、関東に家を建て、家族の生活拠点ができたときが節目。ですが、自分としては、避難が終わったとは思えません。平日は福島で働き続けていて、家がある地域には、まだ居場所がない。家にいても雲の上みたいにふわふわしています。

◆大熊町

福島第一原発が立地。西部の大川原、中屋敷地区は避難指示解除済み。商業施設は計画より1年遅れ、2021年春に開業予定。
木村紀夫さん(55)、被災経験を発信する大熊未来塾運営、いわき市在住

次女汐凪さんの捜索現場の写真前に立つ木村紀夫さん

どこかで線を引くことは考えたことがない。発信の方法は変化しているが、家族3人を亡くしたことや、経験を伝えることへの思いは全く変わらない。10年たった「3.11」は、みんなに思い出してもらえるタイミングだったな、という感じ。(大熊町沿岸部の自宅は津波で被災し、父王太朗(わたろう)さん(77)と妻深雪(みゆき)さん(37)、次女汐凪(ゆうな)さん(7)=年齢は当時=を亡くした)
男性(77)、大川原の復興住宅在住
前の家に行って、新しい生活をしたい。19年6月にここに来たけど、復興住宅は仮住まいだよ。自分のうちに戻りたくて帰っているんだ。先祖代々の土地から離れるわけにはいかない。避難指示が解除されても、上下水道が整ってなくて帰れない。町の整備の計画はあるけど、見通しはあくまで見通し。また、延びっかもしんねえ。
蜂須賀礼子さん(68)、大熊町商工会長

大熊町商工会の連絡事務所の席に座る蜂須賀礼子さん

自分のうちで生活することが、節目。今は郡山で1人暮らし。21年で5回目の正月になるけれど、安心して寝ていない。「どこで寝てんの、私」って。今住んでいるところは、うちじゃない。震災が続いている。大川原の人ってうらやましいよね、とつくづく思う。ゆっくり安心して生活できる日は、いつ来るのかな。
武井達哉さん(34)、電気設備会社社員
10年という切りの良い数字。復興は誰かに頼っている感じがするので、自分たちがつくっていくイメージの「再建」に切り替えていきたい。自分は震災の3ケ月前に大熊に来て被災したから、切り替えが早いのかなと思う。町内は思い入れが強い方が多くて、割り切れないとは思います。
滝本英子(えいこ)さん(67)、滝本電器店経営

再開した仮設店舗に夫の真照さんと立つ滝本英子さん(左)

溶融核燃料(デブリ)は(取り出し完了までの期間が)長すぎる。自分たちにとってはここ(大熊町)に出店したことが節目。小さいながらも再開できた。ここまで再生しようと頑張っている人。人と人の絆、思い、捨てたもんじゃない。何が本当の節目でというのが分からなくなってきている。こうしなくちゃ、ああしなくちゃって流されて。いまだに、受けた傷が。傷にはしたくないんだけど。地震だけだったらあそこ(町内の元の店)で仕事をやっていたのに。
鈴木真理さん(39)、鈴木商店4代目

仮設店舗の棚を見る鈴木真理さん

物事を深く考えないで生きてきた。震災にあって、いろいろ考えた。震災が節目かな。復興の節目?今。店を続けるために、考えている。今どうにかできれば、何かが変わる。もともといた人たちが戻らなきゃ、復興したねとは思わない。
男性(66)、中間貯蔵施設用地に家がある
双葉町、大熊町の町民全員が帰還して元通りの生活をしたときが第一歩のスタートだと思います。でも、現実的には無理だと思います。中間貯蔵施設は2045年までは国に使われますし。
村井光さん(71)、大川原の復興住宅在住

復興住宅の前でこけだまを作りながら、思いを語る村井光さん

やっぱり子ども。将来の担い手が来て、家族が住んで初めて節目。年数の区切りは何年たっても同じ。子どもらが帰ってこない。震災後に産まれた子には、ここがふるさとじゃない。10年、20年たとうが元通りにはならないんだから、新しいまち作りをしないと。(町全域の避難指示は)10年たっても解除されない。町自体が解除になったら、本当の節目。バリケードがあって、全体が自由に入れないんでは、10年たっても100年たっても区切りじゃない。
広嶋正人さん(46)、大熊町商工会議所職員
全町で避難指示が解除されたときは節目だと思います。私の家は、中間貯蔵施設の用地にある。ふるさと大熊には、立ち入れない地区がある。町中を自由に走れない状況が続く限り、節目はない気がします。
女性(83)、元稲作農家、大川原在住
2019年8月に自宅に帰ってきたのが節目。いつ帰れるかなと思っていたから、やっと。自分の復興っていうのかな。でも、すぐに元の生活に戻すのはできなかった。家の前の畑も草がぼうぼうで荒れていたし、肥料も上げてこなかった。去年植えたナスはうまくいかなかった。作物ができるようになったのは10年目かな。やっと土いじる楽しみが出てきた。残念なのは、元の家族に戻れないこと。3世代で暮らしていたけど、孫たちの年齢でここにきても意味ない。仕方ないのかもしれないけど。
横田トメ子さん(93)、大熊町のグループホーム

大熊町役場で行われた「復興のつどい」で、折り鶴に「早く我が家に帰りたい」とつづった横田トメ子さん

とにかく家に帰りたいねぇ。自宅は原発から4キロの場所にある。10年も家に帰れないなんて。他に何もいらない。ただただ帰りたい。
石田仁さん、社会福祉法人「おおくま福寿会」理事長

大熊は復旧もできていないし、住民も帰れていない。中間貯蔵施設ができ、除染だって終わっていない。復興のスタートラインにも立っていない。
根本常子さん(81)、いわき市在住
 大熊町で生まれ育った。原発から1.5キロのところに家があった。家があった場所は中間貯蔵施設になって、帰ることができない。今はいわき市の中古住宅に住むが、落ち着かない。先祖代々、守ってきた土地を私の代で手放さなくてはならないなんて、情けない。帰れるものなら帰りたい。10年たったと言うけど、大熊町はまだスタートライン。何も進んでいない。命は助かったって思うけど、どうして生まれ育った大熊に住めないのかと思うとつらい。

◆富岡町

北部のJR夜ノ森駅東側に帰還困難区域が残る。居住者は、原発事故前の1割ほどにとどまる。
大和田信成さん(64)、無職
節目と思えるかは納得できたかどうかだと思う。コンビニ経営という仕事を失い、信頼していた従業員たちも戻ってこない。人生が180度変わってしまった。何年たっても納得はできないと思う。
女性(72)、無職
生きている限り節目とは思えない。15カ所を転々として寒さがこたえる郡山市の仮設住宅で5年以上過ごし、昨年に戻ってきた。この苦しさを、過ぎたことにできる日は来ないと思う。
女性(81)、無職
(早口で怒ったように)夫に先立たれて一人きりで避難生活してきた。今でもテレビで原発事故のニュースが流れると消してしまう。節目とか言う前に、まだ原発事故のことを考えられない被災者がいることを知ってほしい。
遠藤文雄さん(83)、農業
2年前に戻ってきたが、コメを作ったとしても売れない。福島のコメを避ける消費者心理がなくならない限り、節目と思えない。
草野倫仁(ともひと)さん(25)、理容店店主

故郷で開業した理容店でカットの練習をする草野倫仁さん

節目か。難しいっすけどね。なんか人の数なのかなって。震災前で1万6000人?それだけ人がいたら活気がでる。今は人はいるけど、仕事するためにただ来ている。仕事だけの町じゃなくて、みんなが家族で住める震災前みたいな町になったら、復興したなと思うのかな。

◆楢葉町

居住者は原発事故前の半分まで回復。商店など事業者数や水稲の作付面積も、増えてきている。
早川篤雄さん(81)、宝鏡寺住職

「非核の火」の前であいさつする宝鏡寺住職の早川篤雄さん=楢葉町で

10年で節目どころか、福島の原子力災害は時間がたつとますます深刻になっている。汚染水の問題や溶融核燃料(デブリ)の問題など解決できないものが次々と起きている。節目なんてとんでもない。何万年か後に福島第一原発があった場所が自然の放射線量と同じ水準になれば、節目と言ってもいいかもしれない。
渡辺喜市さん(83)、石材業、いわき市在住
全ての原発がなくなれば節目と言えるのではないか。少なくとも、今は生活苦などでつらい思いをしている被災者はまだたくさんいるから、10年で節目ということにしてはいけない。(楢葉町で)
井田守さん(66)、団体職員、いわき市在住
今も海を見るのが怖い。津波であっけなく事故を起こしたのだから、原発の運転に安全なんてありえない。原発がなくなってからはじめて、節目になるのかどうかを考えるべきだ。(楢葉町で)
石堂祐子さん(62)、団体職員、福島市在住
10年とか20年とか年数で区切らないでほしい。福島市では避難指示はなかったが、放射能汚染で何を食べていいか、水を飲んでもいいのか悩みながら暮らす生活は今も続いている。福島第一原発が更地になれば少しは安心だけど、それでも原発事故を過去の出来事と思えることはない。(楢葉町で)

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