<首都残景>(22)滝山城 民衆と生きた「土の傑作」
2021年3月21日 07時19分
城といえば壮麗な天守閣や石垣を連想する人が多いかも。
しかし戦国時代までの城は、険しい山に築かれた山城が多く、自然の斜面を鋭角に切り取った壁や堀で構成されていた。
八王子市内にある滝山城は城郭マニアの間で「土の城の傑作」と呼ばれている。どんな城なのか。NPO法人「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」(尾熊治郎理事長)の面々に案内をしていただいた。
取材当日、手製の甲冑(かっちゅう)に身を包んだ武者たちが集まってきた。手には槍(やり)や弓、刀を携えた勇ましさ。
「ボランティアですから楽しいのが一番。メンバーは熟年ばかりですが童心に戻ってやみつきになります」と尾熊さん。
とはいえ甲冑姿を披露するのは祭りやイベントのときだけで、日ごろの活動は遺構を保護するための草刈りなどがほとんど。十五年前から十数人で汗を流し続けてきた。そのおかげで雑草に埋もれがちな土塁、土橋などを誰でも目にすることができる。
「城攻め」の前に滝山城の歴史を学習。築城は約五百年前。小田原北条氏四代氏政の弟にあたる氏照が一五六七〜八七年ごろ、居城とした。甲斐の武田信玄の軍勢を相手に攻防戦を繰り広げたこともあったという。
大手口から歩き始めると、深い溝の底の坂を上る。両側の竹やぶから今にも敵兵が躍り出てきそうな妄想が楽しい。甲冑隊は「エイエイオー!」と気勢をあげて大はりきりだ。
一番の見どころは「二の丸」付近。武者一人だけが通れるようにつくった土橋が幾筋も交錯し、「曲輪(くるわ)」(広場)、「虎口(こぐち)」(出入り口)などが残る。ほかに再現された木橋や船遊びをした池の跡などもある。
尾熊さんは「城は単なる軍事拠点ではなかった」と話す。
当時の合戦では、放火、拉致、略奪が横行した。敵の軍勢が攻め込んでくれば、農民は城に逃げ込み、助けを求めた。武将は民を守ってこその武将であり、税を集めることもできた。
「名もない民衆が生きた歴史がここに詰まっているのです」
「守る会」ではガイドの予約を受け付けている。電090(4700)6854。
文・坂本充孝/写真・戸上航一
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