ピンポン外交50年の日中は 加藤直人・論説委員が聞く

2021年3月22日 07時40分
 中国に国際舞台への扉を開いた「ピンポン外交」から今年で五十年です。日本卓球協会の後藤鉀二(こうじ)会長が訪中し、名古屋で開催された第三十一回世界卓球選手権大会への中国チーム招待を成功させたことが歴史の歯車を回しました。後藤氏の秘書として訪中に同行した小田悠祐さんに交渉の舞台裏を聞き、今後の日中関係を共に考えました。

<ピンポン外交> 名古屋を舞台に、米中和解、日中国交回復へと歴史の歯車を回した日本、中国、米国の卓球を通じた交流。1971年1月、日本卓球協会の後藤鉀二会長が、同年3〜4月に名古屋市の愛知県体育館で開催される世界卓球選手権大会に中国チームを招待するため、当時、国交のなかった中国を訪問したのがきっかけとなった。
 緊張関係にあった米国と中国の卓球選手が、同大会に参加した際、偶然バスに乗り合わせたことから卓球を通じた交流が加速。「ピンポン外交」はニクソン米大統領の電撃訪中による米中和解、田中角栄首相訪中による日中国交正常化へと続く道筋をつけた。

 加藤 後藤氏の訪中は一九七一年一月です。毛沢東が発動した権力闘争である文化大革命で中国は国内が混乱し、国際的にも孤立した時期でした。強豪の中国卓球チームは二大会連続で世界卓球選手権に不参加でした。後藤氏が中国招待に全力を挙げた原点は何でしょうか。
 小田 後藤先生は日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長であり、愛知工業大学長も務めていました。地元名古屋で開催予定の卓球選手権を世界一のものにしたいという強い思いがあり、そのためには最強の中国チームの参加が不可欠と考えたのです。さらに、自身も兵役で中国に赴いた体験から「筆舌に尽くし難い迷惑をかけた」「中国のために尽力したい」という熱い気持ちをお持ちでした。
 加藤 国交のなかった社会主義国への訪問は、大変な苦労があったでしょうね。
 小田 訪中の計画が報じられると、右翼団体などが後藤先生の自宅、学校に抗議の街宣活動に押しかけました。後藤先生は「命を落とすことがあっても結構だ」と言われましたが、万一に備え、極秘で訪中しました。後藤先生と私は羽田から空路で香港に飛びました。後藤先生は豪胆な方ですが、出発時からハンチング帽をかぶり、めがねにマスクで変装して行きました。香港・深圳(しんせん)間の国境の橋を渡り中国国内に入ると、「美国(米国)帝国主義反対」などの標語が街にあふれ、社会主義国に来たことを痛感しました。
 加藤 中国は「台湾は自国領土の一部」という立場です。しかし、当時は国際卓球連盟(ITTF)に中国が加盟し、アジア卓球連盟(ATTA)には台湾が加盟するという状況でした。さらに、中国政府は五八年に訪中した日本社会党代表団に「二つの中国をつくる陰謀に加わらない」などの「日中政治三原則」を示していました。すなわち、民間交流でも台湾問題を柱とする政治三原則はハードルとなり、その承認なくして招待は成功しないわけですね。
 小田 後藤先生は訪中前に、周恩来首相と強いパイプを築いていた日中文化交流協会を通じて、日中政治三原則をのむことを中国側に伝えていました。だから、交渉のスタートは順調でした。ただ、後藤先生は「政治三原則」を認める決断については、相当悩みました。民間人がスポーツに政治の問題を持ち込むことになるわけですからね。
 加藤 ATTAからの台湾除名問題では、ITTFの規約により、ATTAのメンバーはITTFのメンバーでなくてはならないとされていたことがポイントですね。
 小田 ですから、後藤先生は最初の正式会談で、規約違反に言及し「私はアジアの卓球界から台湾を除名することにやぶさかではない」と表明しました。中国側の理解を得たと思っていましたが、会談紀要をまとめる実務協議に入ると、中国側から「台湾の蔣介石一派をアジア卓球連盟から追放せよ」という語句を入れよなどと、激しい言葉が次々に飛び出しました。中国側のけんまくに、後藤先生は「ユウスケ、これで終わるぞ。もう帰る」とおっしゃった。一度は決裂を覚悟されたんですね。
 ところが、その後の正式会談で中国側が急に折れてきたんです。「後藤先生の言うITTFのルールで結論を出しましょう」と。宿舎に戻り、「やったあ」と酒盛りですよ。みんなしたたかに酔っていたら、周首相がお会いになると連絡がきました。大慌てで、ネクタイを締めて人民大会堂に向かいました。
 加藤 中国側の態度が変わった理由は何だったのでしょうか。
 小田 北京では説明はありませんでした。中国側から後日聞こえてきた話によると、中国卓球協会の宋中主席代理らが周首相に諭されたというんですね。
 周首相は「後藤先生は私が春節(旧正月)に招いたお客さんである。そうした民間の客人を困らせるな。政治三原則をのんだのだから、それでいいじゃないか」と言われたというのです。
 加藤 厳しい交渉で実利を求めるけれど、相手のメンツも立てながら落としどころを探るというのは外交巧者と言われた中国の伝統を感じます。残念ながら、近年は力まかせの外交が目立ちます。
 小田 会見では、周首相が後藤先生の勇気と決断を称賛しました。後藤先生がシンガポールで開かれるATTA臨時総会を念頭に「ITTFのルールにのっとり、アジア卓球界を整頓し正常化します」と決意を述べました。「台湾」や「除名」という言葉を使わずに、問題を解決できたのです。周首相は「後藤先生の後ろには中国七億の民がついています。頑張ってください」と激励されました。
 周首相は随行者にも気軽に話しかけられ、私には「小田さんは独身ですね。新婚旅行はぜひ、中国においでください」と言われ、私は緊張のあまり「ハイ、ハイ」と返事するのが精いっぱいでした。
 加藤 後藤氏は二月のATTA臨時総会に会長職を懸けてのぞんだわけですね。
 小田 後藤先生が「台湾はITTFのメンバーではないので、必然的にATTAにも加盟できない」と説明し、台湾除名を求めると、各国代表から「スポーツに政治を持ちこむとはけしからん」と非難ごうごうでした。後藤先生は「ITTFのルールに従ってATTAをまとめるのが私の使命。それができないなら会長を辞める」と言って退席しました。
 加藤 後に「ピンポン外交」と言われる交流が、中国を国際社会に復帰させる突破口になると、周首相は考えていたのでしょうか。
 小田 会談の場などでそうした発言はありませんでした。ただ、周首相の胸のうちには、遠くを見すえる戦略があったのかもしれません。半世紀もたって交渉の舞台裏をお話しするのは、今では摩擦の多い日中間にスポーツを通じた温かい交流があったことや、後藤先生の勇気ある決断と行動を後世の人に伝えたいからです。
 加藤 近年の中国は世界第二の経済大国になったとはいえ、政治や外交では強権的なふるまいが目立ちます。今後の日中関係で何が重要だと考えますか。
 小田 今の中国には、周首相が実践したような相手の立場にも気を配る懐の深い外交姿勢を取り戻してほしいですね。七〇年代は民間が日中交流を支えており、ピンポン外交も民間の力が原動力でした。今は、特に中国では政治の力が強すぎますが、民間交流やスポーツなどを通じた相互理解がもっと進むことを期待します。
 中国は強大になりましたが、人権抑圧などについては、日本は民主主義を守る立場から、きちんと批判すべきです。お互いに耳が痛くとも、正論を言い合える関係を築いてこそ、真の隣国と言えるのではないですか。

<おだ・ゆうすけ> 1946年、愛知県生まれ。68年から2011年まで、学校法人名古屋電気学園勤務。1971年に日本卓球協会の後藤鉀二会長の秘書として、中国卓球チーム招待のための訪中に同行し、周恩来首相との会見にも同席した。2012年から、私立名進研小学校(名古屋市)の渉外部長。


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