戻った人も、帰れない人も トウガラシ栽培でつながるふるさと

2021年3月26日 17時00分

調味料で使う粉や油、焼き豚などトウガラシの加工品を紹介する広畑さん=福島県南相馬市小高区で

 福島県相馬市に住む広畑裕子さん(62)は週6日、車で1時間かけて生まれ育った南相馬市小高区にある工房に通う。東日本大震災後に地域とのつながりを見つめ直し、地元発の特産品づくりを始めた。町に戻った人、避難先にいる人、それぞれが育てるトウガラシを加工した「小高一味」は、離れていても故郷とのつながりを感じてもらおうという証しだ。(神谷円香)

◆持ち込み80人以上に

 震災から10年の3月11日も、広畑さんは工房でトウガラシの粉をびんに詰め、包装する作業に明け暮れた。午後2時46分、防災無線が響く。作業の手を止めて海の方を向き、静かに目を閉じる。「淡々とした日常が大事」。しばらくすると、作業に戻った。
 東京電力福島第一原発事故の避難指示で一度は無人となった小高。広畑さんは避難指示解除後の2017年、この町でトウガラシを特産品にしようと動いた。
 トウガラシは、プランターで手軽に栽培でき、収穫もしやすい。小高に戻ってきた人や避難先にいる人に栽培を呼び掛けた。数人で試験的に始め、3年で80人以上に増えた。持ち込んでもらったトウガラシを買い取る際に、話が弾む。

午後2時46分、防災無線が鳴ると海の方角を向き手を合わせる広畑さん

 「うちの入り口、段差があるでしょ。中にいる人が『危ないよ』って声を掛けると、そこで会話が生まれる。それが好きなんだ」。豪快に笑う広畑さんの人柄に震災後、小高の人たちは引き寄せられてきた。

◆工房は交流の場

 あの日、小高区の海側にある自宅は高台に位置し、津波を免れた。家族も無事だった。ただその夜、避難所で出会った地域の人々はあいさつはしたことはあるものの、どんな人かは知らなかった。1年後、町への立ち入りができるようになっても、ほとんど人に会えずに寂しかった。
 働いていた印刷会社は、福島第一原発がある大熊町から郡山市に移転。震災後の1年は、避難した相馬市から車で山道を2時間走り通勤した。12年夏に南相馬市鹿島区の仮設住宅に移ってからも続けた。何とか震災前の日常を取り戻したかった。だが「震災で家族と過ごす時間や、地域とのつながりの大切さに気付いたはずなのに」と考え、13年3月、退職した。
 15年、町の玄関口であるJR常磐線小高駅近くに、誰でも気軽に立ち寄れるサロンを作った。その後、近くに設けた工房も地元の人たちの交流の場となっている。3月11日も、将棋を指しに高齢の男性2人がやって来た。

◆一人一人ができることを

 トウガラシ栽培と商品化の取り組みは市内外で知られ、東京でも商品を置く店ができた。しかし新型コロナ禍で、主力のイベント販売は昨年からほぼできていない。「自分の給料は出ない」。ぎりぎりの経営だ。

震災から10年の日も普段通りトウガラシの粉のびん詰め作業をする広畑さん

 仮設住宅を出た後は、夫、次男と相馬市で暮らす。小高の自宅は週1回の手入れを欠かさないが、あの日以来、一度も寝泊まりしていない。「夕方4時前、津波が来た時間にいると、怖くなってくっから」
 小高の家にいつ帰るのかと、聞かれたくはない。「私たちが、自分の気持ちと向き合いながら決めること」。老後などを考えれば簡単に答えは出ない。「この町をどうしたいというより、いる人が楽しんで、笑っていればいい」。一人一人ができることを少しずつ進められたら。毎日を笑って過ごせる時間が、今の広畑さんには大切だ。

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