日本の本質は「境界」に 渋沢敬三創設「アチック・ミューゼアム」100年 安室知(やすむろ・さとる)さん(神奈川大学日本常民文化研究所所長)

2021年3月27日 13時39分
 「暮らしや仕事で使う道具は、かつてだれも研究対象にしなかった。しかし、文化を知るためには大多数を占める庶民の生活の研究が欠かせないのです」。神奈川大教授で、昨年四月から同大日本常民文化研究所所長を務める安室知(やすむろさとる)さん(61)はこう力説する。
 稲作民による漁労活動の研究などで知られる民俗学者。その研究活動の原点を問うと、同研究所の前身「アチック・ミューゼアム」の創設者・渋沢敬三(一八九六〜一九六三年)に「触発されたからです」とにこやかに答えた。
 筑波大学時代に卒業論文のテーマに「筌(うけ)」を取り上げ、栃木県の小さな川の流域を巡った。筌とは、渋沢が民具学を打ち立てようと初めて体系的に調べた漁具で、ドジョウやフナを捕るための竹製の筒。当時、下流の水田地帯で、農家は当たり前のように筌を用水路や田んぼに仕掛けていた。
 「主流の民俗学、歴史学が描くのとは違う日本人の暮らしの様子が見えてきた。渋沢の言うことは本当だった。農家は米や野菜を作る者という単純化した見方ではなく、魚や水鳥も捕るだろう、というユニークな視点だった」
 漁業史が伝える漁具は漁師が使うものであり、農家の筌は扱われない。だが、漁師か農家かは研究上の便宜的な区分であり、実際の庶民の暮らしは、自然の恵みを大切に利用するために、農も漁も混ざっていたのではないか−。
 安室さんを開眼させた「渋沢民具学」の始まりは一九二一(大正十)年、東京・三田にあった渋沢家の物置小屋の屋根裏部屋(アチック)だった。東京帝大経済学部を卒業したばかりの渋沢が、幼なじみの友人ら約十人と同好会「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」を結成した。屋根裏をたまり場に、化石や鉱物の標本や旅行の土産物を持ち寄っては並べて楽しんでいた仲間だ。
 四年後に「アチック・ミューゼアム」と改称し、昭和に入ると衣食住の民具や農漁業など生業の道具を重点的に収集する。当時は学術的には見向きもされなかった民具だったが、アチックの収集方針は「庶民生活を中心とする文化史の研究」。文化を知るには、庶民生活の研究が必須との信念が、渋沢にはあった。
 実は、渋沢の祖父はNHK大河ドラマの主人公の実業家・渋沢栄一。敬三も横浜正金銀行に入社して帝王学を学ぶと、渋沢家の跡取りとして祖父が残した銀行や運輸系企業の取締役に就いた後、日銀総裁や大蔵大臣も歴任した。だが、そんな多忙な公務の合間を見て同人と旅行団を組み、資料収集に各地に出向いた。また意欲のある研究者には惜しみなく資金援助して研究や著作の刊行をバックアップした。
 安室さんは渋沢の功績を「当時の歴史学や民俗学が見落とした学問の『間』に着目したことだった」と語る。「研究者としてよりも生活者の視点を忘れなかった。ある種のアマチュアリズムで研究したので、庶民生活を虚心坦懐(たんかい)に見ることができた」。さらには、海でも陸でもない「低湿地」、海水と真水が交わる「汽水域」など境界の領域に目を向けるよう示唆した。このテーマは、アチックが一九四二年に改称した日本常民文化研究所の同人だった宮本常一、さらに八二年に神奈川大学に移管後、所員だった河岡武春らが引き継ぎ、深化した。
 「境界に意味を見いだし、日本の文化や暮らしの本質があることを見つけたのが渋沢だった」。卒論のテーマだった水田での漁労や狩猟の研究は、今もライフワークとして続けている。“境界の視点”を受け継ぐ。昨年出版した『都市と農の民俗』(慶友社)にもその精神は息づく。
 今年はアチック創設から百年の節目の年。同大には昨年、「歴史民俗学科」が新設され、研究者を学部生段階から育成できるようになった。最近の学生は異世代の人から話を聞くのが苦手という。「自然の恵みをうまく利用する智恵(ちえ)は、聞き取り調査をして残さないと消えてしまう。渋沢のように聞き上手になって」。アチックの後継者たちにエールを送った。(栗原淳)

関連キーワード

PR情報

土曜訪問の新着

記事一覧