<寄稿>憲法53条訴訟を考える 裁判所は無用の遠慮をやめよう 志田陽子(武蔵野美術大学教授)

2021年4月2日 22時02分
 安倍晋三内閣が臨時国会の召集要求に3カ月応じなかったことの是非を問う訴訟で、東京地裁は3月24日、原告である国会議員の訴えは「裁判の対象にならない」と門前払い。同じ訴訟でより踏み込んだ那覇地裁判決と比べ、東京地裁判決をどうみるか。武蔵野美術大学教授で憲法が専門の志田陽子さんに寄稿してもらった。

◆「採用できない」

 憲法53条は、「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いずれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と定めている。
 2017年6月22日、当時の衆・参両議院の議員が、53条の後段に基づいて内閣に臨時会の召集を要求した。内閣は約3カ月の間これに応じず、同年9月28日になって臨時会を召集し、その冒頭で衆議院解散を宣言した。要求を行った議員たちが求めていたのは、森友・加計学園問題の経緯を明らかにすることだったが、この議事は行われなかった。このことの違憲・違法性を問う裁判が、沖縄、東京、岡山で提起された。このうち那覇地裁判決(20年6月10日判決)に続く判決が、東京地裁で出された(21年3月24日判決)。

召集要求から3カ月後にようやく開会したが、即日衆院解散となった

 判決は、原告の請求をすべて棄却、というものだった。
 同じ請求棄却でも、那覇地裁判決は、一般論としては53条後段の内閣の義務は「法的義務」であること、内閣の裁量は狭いものにとどまること、これへの違反は司法審査の対象となることを明言している。ただ、現行の国家賠償法は私権の救済を目的としているので、本件のような公益の実現を目的とした訴訟は扱えないとして、事案に具体的に踏み込む判断は避けた。
 この那覇地裁判決に比べ、東京地裁判決は「原告の主張は…いずれも採用することができない」として憲法判断回避の方向に大きく後退した。判決は53条後段への違反があったとの主張を「採用できない」として、17年の内閣の行為を合憲とするものではない。あくまでも裁判所としてこの件の救済はできないと言っているにとどまる。この判決は、憲法判断または憲法解釈に言及することの一切ない、門前払いの判決だった。

◆粗雑に描いてその粗雑さを論難

 この53条後段の訴えについては、(A)国の機関としての国会議員の権能と、(B)それが妨げられたときに国会議員が個人として持つ職業遂行の権利やこれに伴う人格権が侵害されたという問題との両面がある。今回の判決はこれについて、「Aが直ちに(または当然に)Bになるわけではない」という言い方を多用しているが、これは論理のすり替えというべきだろう。
 筆者はこの訴訟で意見書を提出し、東京地裁で法廷証言にも立っているが、原告および弁護団は、この問題が(A)だけでなく(B)の問題でもあることを丁寧に論証していた。そのプロセスに立ち会った者としては、原告(弁護団)が「Aが当然にBとなる」という雑な主張をしていたとは思わない。

臨時国会の不召集を巡る訴訟の判決後、記者会見する弁護士ら

 また、「BではなくA」という理解に立った上で、Aは特別な法規がなければ裁判で救済できないと断じるのも、一見優等生的な「わきまえ」に見えるが、そのような禁止ルールが裁判所に課されているわけではなく、そこは裁判所次第である。
 刑事裁判の場合には、法文にない事柄に解釈が広がらないように厳格に解釈するという原則(罪刑法定主義)があるのだが、損害賠償を含む民事の救済については、権利救済を重視した弾力的な解釈はこれまでにも行われてきている。国家賠償もそちらの系列に属する。権利保障のあるべき筋道に照らしたとき、望ましい解釈をとることで救済の道幅を広げ、《救済の谷間》を埋めることは、裁判所が行うことのできる仕事である。こう考えると、今回の東京地裁判決はあまりにもかたくなに消極的なものだった。
 国家賠償請求は棄却となっても、裁判所が違憲判断は示す、という判決はこれまでにも出されている。つい最近出た同性婚否定違憲訴訟の札幌地裁判決(3月17日)がそうだった。こうした判決は、国会や内閣に制度の改善を促すメッセージになりうる。憲法の保障する権利や、国の国政上の義務は、本来ならばそれを確実に実現する法制度が整備されるべきである。そこに義務違反と権利侵害が生じているとき、少なくともその事実だけは率直に認める、という判決を裁判所が出すことは、国会や内閣への不当な干渉にはならない。
 昨年6月10日の那覇地裁判決は、53条が法的義務であるという一般論を示すことで、その一歩手前まで行っていた。東京地裁判決はそうしたメッセージの要素を一切取り払った点で、那覇地裁判決よりも後退した内容となった。

◆合憲とはしていない

 この判断をわかりやすく言えば、議員としての活動にかかわる事柄については裁判所に頼らず、議会や選挙などの場で戦ってください、ということだろう。
 仮にある議員が「ある法案を通したい」あるいは「不満のある法案が可決されてしまったためにこれを覆したい」と裁判所に訴えているようなケースであれば、そのとおりだろう。しかし53条裁判は、これとは異なる。その活動の足場を憲法がとくに保障しているにもかかわらず、その足場が奪われているという状態が生じたのであり、議会と内閣に委ねていては是正不可能だからこそ裁判に訴えているケースである。この足場の保障の問題を、国会の多数決の成り行きに委ねるのが筋と考えている東京地裁の思考方法には、立憲主義に関する理解不足がある。
 憲法を含め、法制度の中には、弱い側・不利な側が対等に振る舞えるように、その足場を強めるための権利保障が多々ある。53条後段が、数の上では明らかに負ける「4分の1」という少数者に議会開催を求める権利を認めているのも、多数決では奪うことのできない立憲的なルールとして、議論や行政監督の足場を保障するルールである。これが守られていないとき、「それは議会で戦ってください」と言って放任するのは、この条文が存在することの意義を無視することになるだろう。

志田陽子さん

 原告の主張に対して、「筋違い」と切って捨てた今回の裁判所の姿勢は、民主過程に判断を譲る賢慮とは言えず、筋違いな遠慮というものだろう。
 最後にもう一度念を押すが、この判決は、17年の内閣の行為を合憲とするものではない。裁判所が判断できないと言って引いてしまっているとき、この判断を託されているのは、あるいは裁判救済を可能とする制度づくりを託されているのは、議会と内閣、そして国の仕事ぶりを見守り判断を下す立場にある国民である。

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